出張の帰り道、鞄の中に「くじらの骨」が入っている。そんな経験は、あまりないかもしれません。
きっかけは、佐賀県唐津市への取材が決まった日のこと。同じ編集部の方に「唐津に行くなら、松浦漬がおすすめだよ」と教えてもらいました。
「どんなものなんですか?」と尋ねると、返ってきたのは「くじらの軟骨を酒粕に漬けた珍味」というひと言。
くじらの軟骨——思いがけない答えに、少し驚きました。
どんな味なのだろう。そもそも、なぜその部分を食べる文化があるのだろう。
そんな小さな疑問を胸に、唐津へ向かいました。
そして帰り道。
私の鞄の中には、小さな缶詰がひとつ。
くじらの軟骨を酒粕に漬け込んだ、唐津ならではの味。
「松浦漬」と呼ばれる、その一品です。
呼子とくじら。海に刻まれた食文化

今回の取材では、唐津市の港町・呼子(よぶこ)にも足を運びました。松浦漬を知るうえで、この町の歴史は欠かせません。
現在は「活イカ」の町として知られる呼子ですが、かつては捕鯨の一大拠点として栄えた場所でもありました。玄界灘はくじらの回遊ルートにあたり、沖合には大きなくじらが行き交っていたといいます。
当時の捕鯨文化には、「くじらに捨てるところなし」という言葉が残るほど。肉や内臓はもちろん、骨や髭は工芸品へ、鯨油は燃料としても活用されていました。くじら1頭の恵みを余すことなく受け取り、暮らしの中でいかしてきた土地だったのです。
ただ、その中で活用が難しいとされていた部位もありました。
鯨の上顎付近にある「かぶら骨」と呼ばれる軟骨です。加工が難しく、使い道が見出しにくかったことから、多くは廃棄されていました。
そのかぶら骨に価値を見出したのが、松浦漬本舗の創業者・山下ツル(やましたつる)さん。1892年(明治25年)のことでした。
「この独特の食感を生かせないだろうか」
そう考え、試行錯誤の末にたどり着いたのが、酒粕に漬け込むという方法です。私財を投じ、家が傾きかけたこともあったそう。その情熱が、やがて唐津を代表する珍味を生み出しました。
こうして生まれた「松浦漬」は、かぶら骨を細かく刻み、長時間水にさらして脂を丁寧に抜いたのち、甘く調味した酒粕に漬け込んだもの。なめらかな漬け床とコリコリとした食感が重なり合う味わいは、平凡社の百科事典で「日本珍味五種」のひとつに数えられています。
使用する酒粕は、銘酒の産地として知られる広島・西条(さいじょう)のもの。巨大なタンクに入れ、足で踏みしめる「粕踏み」という工程を経て、1年以上かけて熟成させていきます。
そして最後の味付けや調合は、創業以来、歴代の社長だけに受け継がれてきた家伝の技。今もなお、そのすべてを知るのは社長ただ一人だそうです。
旅の余韻とともに開ける、くじらの珍味
東京に戻り、落ち着いたところで、さっそく開けてみることにしました。
今回購入したのは、旅先でも手に取りやすい80gの小箱と、しっかり味わえそうな180gの缶です。

まず目を引いたのが、パッケージ。赤、緑、青、金と鮮やかな色使いに、中央には海や船、捕鯨を思わせる図柄が描かれています。いまどきのミニマルなデザインとは一線を画す、堂々としたレトロな佇まいに、つい見入ってしまいました。
缶を開けると現れたのは、乳白色の酒粕に包まれた、細く刻まれた素材。まるで千切りにした大根のようで、ぱっと見ただけでは正体がわからない不思議な見た目です。

少しだけ緊張しながら、ひと口いただきます。
口に入れた瞬間、ふっと頬がゆるみました。
コリコリとした独特の歯ごたえが心地よく、やさしい甘みの酒粕が全体をやわらかく包み込みます。ほんのり効いた唐辛子が後味に軽やかなアクセントを添え、食べ進めるほどに印象が少しずつ変わっていくのも楽しいところです。
「くじらの軟骨」と聞いて想像していたよりも穏やかで、品のある味わい。素材の個性を生かしながら、丁寧に整えられた一品だと感じました。強い癖はなく、むしろすっとなじむような食べやすさがあります。
全体に落ち着いた品があり、静かに楽しむ大人のつまみ、という印象です。ご飯のお供としても十分魅力的ですが、それ以上に「お酒と合わせたい」という気持ちが自然と湧いてきます。
酒屋「太閤」で出会った1本
実は取材中、唐津市内でふと立ち寄った酒屋がありました。唐津駅から徒歩3分ほどの場所にある「地酒販売処 太閤」です。
唐津市内の酒蔵・鳴滝酒造が手がける銘酒「聚楽太閤(じゅらくたいこう)」を専門に扱うお店で、唐津観光協会の「旅Karatsu」にも紹介されているだけでなく、地元でも親しまれている1軒です。
扉を開けると、瓶が整然と並ぶ棚の奥に、大きな一枚板のカウンターが目に入りました。
かつて店内でお酒を楽しむ場として使われていた「角打ち」の名残だそうで、今はレジ台として受け継がれています。形を変えながら文化が残っている、そのさりげなさが印象的でした。


そこで店主の方が勧めてくれたのが、「聚楽太閤 大吟醸 栄(さかえ)」という1本。
「アルコール度数をあえて少し抑えていて、その分とても飲みやすく仕上げているんですよ」と教えていただきました。店内の商品POPには「旨口」とあり、その言葉にも惹かれます。

試飲させていただくと、口に含んだ瞬間にふわりと香りが立ち上がり、すっとやわらかく広がっていく感覚。「これにしよう」と、その場で手に取りました。
聚楽太閤、300年の歴史と1杯のお酒
帰宅して改めて瓶を眺めると、まず目に入るのは、金色で大きく記された「栄」の文字。その傍らには太閤秀吉の姿が描かれていて、堂々とした風格を感じるデザインです。裏ラベルには、天下人として栄を極めた秀吉にちなみ、すべての人に「栄あれ」との願いを込めた、という酒蔵の言葉が添えられていました。
スペックを見てみると、アルコール分15度、精米歩合38%、日本酒度+3.5。精米歩合38%というので、雑味の少ない、澄んだ味わいが期待できそうです。
そもそも「聚楽太閤」を醸す鳴滝酒造は、300年以上の歴史を持つ唐津の老舗酒蔵。その蔵が構えるのは、唐津市内で「神田お茶の水」と呼ばれる伝説の名水の地。かつて太閤秀吉がこの水を用いて千利休に茶を点てさせたとも伝わる湧き水を、今も仕込みに使い続けています。銘柄の名だけでなく、唐津の大地から湧く水にも、秀吉の物語が脈々と重なっているのです。
蔵の代表銘柄である大吟醸は、全国新酒鑑評会での金賞受賞を重ねてきた実力派。毎月開催される「太閤会」という愛飲家の集いが50年以上続いていることからも、地元に深く根付いた存在であることが伝わってきます。
松浦漬と、大吟醸と。
冷蔵庫でしっかり冷やした「聚楽太閤 大吟醸 栄」を、実家にあった唐津焼風(?)のおちょこに注ぎます。澄んだ液体が、静かに光を受けて揺れていました。
ひと口含むと、上品な吟醸香がやさしく鼻へ抜けていきます。フルーティーでありながら甘さは控えめで、口当たりは軽やか。後味のキレも心地よく、苦味のない澄んだ味わいです。
気づけば、もうひと口、もうひと口と手が伸びてしまうほどの飲みやすさ。店主の方が「飲みやすい」と話していたのも、納得です。

そこに、松浦漬をひとつまみ。
——これが、驚くほどよく合います。
松浦漬の酒粕のやさしい風味と、大吟醸の吟醸香が、寄り添うように重なり合うのです。どちらかが前に出るのではなく、互いの輪郭をそっと引き立て合うような関係。コリコリとした食感のあとにひと口含めば、口の中がすっと整い、また次のひと口へと手が伸びてしまいます。その繰り返しの心地よさに、気づけばおちょこの中は空になっていました。
唐津という同じ土地から生まれたもの同士が、遠く離れた東京の食卓で出会い、こんなにも自然に調和する。
そのことが、どこかうれしく、少しだけ特別な時間に感じられました。
おわりに
唐津には、海の恵みを受け取ってきた歴史があり、商いの町として育まれてきた時間があります。
そのなかで磨かれてきた味が、今も変わらず息づいている。
松浦漬も、聚楽太閤も、ただ「名物だから」残っているのではなく、土地の記憶とともに受け継がれてきたもの。だからこそ、食べたときにすっと心に残るのかもしれません。
気づけば、また手に取りたくなっている。
そしてきっと、誰かにもすすめたくなる。
「最初は少し驚くけれど、気づけば好きになっているよ」と。
そんな食べものやお酒に出会えたとき、旅は帰ってきてからも、ふとした瞬間に思い出されるものだと感じました。
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もっと知りたいあなたへ
有限会社松浦漬本舗
https://www.matsuurazuke.com/
本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。