スマートフォンもネットも当たり前だった私にとって、この映画はどこか「別世界」をのぞき見るような気持ちで始まりました。
でも見終わったあと、不思議と残ったのは「不便そう」という感想ではなく、「こんなふうに人と向き合えたらよかったな」という羨ましさでした。
映画『聴く隣人のいるところ』は、島根県江津市、浅利富士(あさりふじ)の中腹にある、全校生徒わずか34名の全寮制キリスト教学校・愛真(あいしん)高校の2024年度在学生に1年間密着したドキュメンタリーです。スマートフォンもネットもない環境の中で、生徒たちは共同生活を送りながら、対話し、歌い、ぶつかり合いながら日々を過ごしていきます。
スマホ世代の私が、この映画を観るまで
映画の感想を書く前に、少しだけ自分の話をさせてください。
私はいわゆるZ世代です。高校時代にはすでにスマートフォンが当たり前にありました。昼休みになれば男子はスマホゲーム、女子はSNS。放課後はカフェの新作を飲みに行って、プリクラを撮って、写真を加工して投稿する。
同級生なのに、DMでは話したことがあるけれど、実際にはほとんど会話したことがない人もいました。SNS上の印象が、そのまま「その人の印象」になっていた気がします。
大人になった今も、人と向き合うことが少し苦手です。
正確には、ぶつかるのが怖い。自分の意見を言うのが恥ずかしい。空気を壊したくなくて、なんとなく相手に合わせてしまう。意見を言わないほうが楽だし、人前で話すのも得意ではありません。
そんな私に、上司から「映画の試写会、行ってみる?」と声がかかりました。
「聴く隣人のいるところ」
フライヤーを見ると、「スマートフォンもネットもない全寮制高校のドキュメンタリー」と書かれていました。
「え、この時代にかわいそう」
率直にそう思いました(すみません)。
でも、その印象は映画を観ながら少しずつ崩れていきます。そして最後には、そんなふうに思っていた自分のほうが、ずっと狭い世界で生きていたのかもしれないと感じていました。
「みんな同じじゃなくていい」教室
会場に着くと、今回試写会に誘ってくださった大村椿(おおむらつばき)さんと、監督の早川嗣(はやかわゆずる)さんに少しだけご挨拶する機会がありました。 お二人はどちらも愛真高校の卒業生だそうで、在学時期こそ違うものの、この映画をきっかけに交流が生まれたそうです。
映画にも教育にも詳しくなくて、と素直に打ち明けたところ、「むしろ先入観のない感想を聞いてみたい」と言っていただけたので、今回はお言葉に甘えて、感じたことを率直に書いてみようと思います。

映画は、生徒たちと先生が海で遊ぶシーンから始まります。
「スマートフォンもネットもない全寮制高校」と聞いて、私は勝手に、もっと閉ざされた学校のようなものを想像していました。
でも実際に映っていたのは、海ではしゃぎ、ふざけ合い、笑い合う、ごく普通の高校生たちの姿でした。
その後も、当番の生徒が厨房で食事を作る場面や、先生たちが職員室の朝礼で讃美歌を歌う場面、生徒たちが講堂で合唱する場面など、この学校の何気ない日常が次々と映し出されます。
そんな穏やかな日常が続くなかで、特に印象に残ったのが、3年生たちが文化祭のクラス劇について話し合うシーンでした。
教室では次々と意見が飛び交います。反論もあるし、空気が少し張りつめる場面もある。見ているこちらまで、少し緊張してしまうような時間でした。
でも誰も話し合うことをやめない。ぶつかっても、とにかく相手の言葉を聞こうとしている。その不器用なやり取りが、すごく印象に残りました。
驚いたのが、教室の机の並び方です。机はきれいに整列しておらず、向きもばらばら。横を向いて座っている生徒もいる。
学生時代、「机を揃えるのが当然」だった私にとって、その光景はかなり新鮮でした。
もちろん、単なる机の向きの話ではありません。
「みんな同じでなくていい」という空気が、教室全体に流れているように見えたんです。
そしてもうひとつ印象的だったのが、この映画にはナレーションもBGMもほとんどないことでした。
ただ、そこにある会話や沈黙を、そのまま映していく。
だからこそ、生徒たちの言葉が生々しく届いてきます。
話し合うことを諦めない人たち

この映画で特に多いのが、「話し合い」のシーンです。
愛真高校では、何かを決めるたびに、生徒たちが机を円にして向き合います。
それは学校の大きな方針だけではありません。
夜食のためにIHコンロを導入するかどうか。
そんな、一見すると些細にも思える議題についても、みんな驚くほど真剣に話し合っていました。
「料理の幅が広がるし、もっと健康的なものも作れる」
そんな賛成意見が出る一方で、
「便利じゃないことも、愛真(高校)らしさなんじゃないか」
という声も上がる。
また、「電子機器の導入を各寮の判断に任せたい」という議題では、
「そのお金は親が出しているのに、簡単に決めていいのか」
と問いかける生徒もいました。
便利さを優先して結論を急ぐのではなく、一度立ち止まって、それぞれが自分の頭で考えたことを、自分の言葉で相手に届けようとしている。
そこにあるのは、ネットから引用した「正解」ではなく、自分の中で考え抜いた末に出てきた言葉でした。

そして印象的だったのは、彼らが意見のぶつかり合いそのものを怖がっていないことです。
ある生徒が、
「話し合いって、意見を変えてもいいと思う。人の話を聞いて変わるのって、素敵なことだと思う」
と口にすると、別の生徒がこう続けます。
「何度でもやり直せるのが愛真。私たちには時間がある」
この言葉は、個人的にかなり心に残りました。
気づけば自分は、失敗したり、矛盾を指摘されたりすることを怖がって、なるべく発言を避けるようになっていた気がします。
でも愛真の生徒たちは、人の話を聞いて考えが変わることも、やり直すことも、自然なこととして受け止めていました。
学校創立以来初めて、「入学時の誓約書を書き換え可能にしたい」という提案が出た場面でも、「修正できたほうが、もっと話し合える」という声が上がっていたのも印象的でした。
この学校では、「話し合うこと」そのものが、とても大切にされている。
そんな空気が、画面越しにもひしひしと伝わってきます。
「人と向き合う」を学ぶ場所
職員会議では、先生が「生徒自身が『自分たちの力で変えられる』と感じることが大切だ」と話していた場面もありました。
生徒だけではなく、先生たちもまた、対話を通して学校をつくろうとしている。
映画を観ながら何度も感じたのは、学校って、本来は「人と関わりながら生きていく練習」をする場所だったのかもしれない、ということでした。
誰かとぶつかること。
意見が変わること。
納得できるまで話し合うこと。
そういう時間を通して、「自分たちの声で、社会やルールは変えられるんだ」と思えるようになる。
愛真高校の生徒たちを見ていると、「自分たちの声には意味がある」と信じられる空気がちゃんと根づいているんだと感じました。
「聴く隣人がいる」ということ
毎晩行われる「夕会」では、当番の生徒が前に立ち、自分の気持ちをありのままに語ります。
人間関係のしんどさを打ち明ける生徒もいれば、「納得できないものは信じられない」と聖書への疑問を率直に口にする生徒もいる。孤独について語る生徒の姿もありました。
みんな決して器用ではないけれど、自分の言葉で懸命に話している。そして周囲もまた、その言葉に真剣に耳を傾けます。
窮屈さや葛藤を抱えながらも、ちゃんと受け止めてくれる人がいる。だからこそ、安心して言葉にできるのかもしれません。
映画を観ながら、ずっと気になっていたのがタイトルにある「隣人」という言葉でした。
後に教えていただいたのですが、キリスト教でいう「隣人」とは、単なる隣近所の人ではなく、「考え方が違う相手や、対立する相手であっても、同じ人間として向き合う存在」という意味があるそうです。
この映画はまさに、「聴く隣人がいるところ」の話だったのだと思います。
自分の声で、歌い、伝えるということ

そして、この映画を語るうえで欠かせないのが「歌」です。
夕会の最後にはみんなで讃美歌を歌うし、文化祭のテーマソングも生徒たち自身が作ります。
講堂で亡くなった家族へ向けた歌を一人で歌う生徒。仲間たちへの想いをラップで披露する生徒。どれも驚くほどレベルが高い。
でも技術以上に、「自分の気持ちを表現すること」を恐れていないのがすごいと思いました。
何度も感じたのは、生徒一人ひとりの豊かさです。歌や楽器だけではなく、演技も、言葉も、それぞれ違う形で輝いていました。
ぶつかり合った先に見えたもの
文化祭当日の3年生によるクラス劇。クライマックスの争いのシーンで、女子生徒が自分を刺した相手に向かって、こんな言葉を口にします。
「私は失敗だらけの人間。多くの人に赦(ゆる)されてきた。だから私はあなたを赦します」
その生徒は以前の夕会で、「今の愛真はみんな傷だらけ。わかっていながら、何もできなかった」と話していました。
だからこそ、この台詞は単なる劇中の言葉ではなく、彼女たち自身の思いのようにも聞こえました。
終演後の写真撮影で見せたみんなの表情は、本当に清々しかった。ぶつかり合った時間も、悩み続けた日々も、その全部を抱えたまま前を向いている。そんな顔に見えました。
この場所を、彼らは愛していた
3学期、卒業シーズン。
3年生の男子生徒が後輩の散髪に失敗したことをきっかけに、関係ない生徒までみんな坊主頭になるブームが到来。女子まで。思わず笑ってしまいながら、生徒たちの仲の良さが伝わってきました。
卒業課題レポートについて語る先生が、「愛されたいではなく、愛したいという言葉が一様に書かれていた」と話す場面では、涙する生徒もいました。
この学校では、「愛」という言葉が驚くほど自然に出てきます。でも、それはきれいごとではなく、人と真正面から向き合い続けた先に出てきた言葉なのだと思います。
先生は卒業を前に、生徒たちへこう語りかけます。
「もし辛いことがあれば、独りじゃなくて誰かと美味いものを食べて、よく寝てください」
「そんな相手がいなければ、学校で美味しいものをつくって待っている」
その言葉にも、この場所が大切にしてきた関係性が表れているようでした。

卒業式で涙する生徒や先生たちを見ていると、この学校で過ごした時間の濃さが伝わってきます。
不便さもある。共同生活だからこその葛藤もある。きっと面倒なことも多い。それでも彼らは、この場所を愛していたんだと思います。
山を去る卒業生たちと、それを見送る在校生や先生たち。そこには寂しさだけではなく、「また帰っておいで」と言ってくれる場所の温かさがありました。
そして映画は、新2年生と3年生が、新入生を迎えるための話し合いをしている場面で終わります。
季節が巡っても、愛真の時間は変わらず続いていく。
映画を見終わったあと、私は少しだけ、人と話してみたくなりました。
ちゃんと聞いて、ちゃんとぶつかって、それでも関係を続けていくこと。
それは面倒で、怖くて、時間もかかる。でも、本当はすごく贅沢なことなのかもしれません。
スマートフォンもSNSもある今の時代だからこそ、この映画に映る「人と人がまっすぐ向き合う時間」が、まぶしく見えました。
自分を表現することを、いつの間にか諦めてしまっている人。
そして、誰かの言葉をじっくり聞くよりも、短い言葉や結論だけを追うことに慣れてしまった人。
そんな人にこそ、一度触れてみてほしい作品でした。
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もっと知りたいあなたへ
映画「聴く隣人のいるところ」
https://kikurinjin.com/
本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。