あらためて出会う、唐津(2)「あるところ」唐津の山あいでたどる食の記憶
佐賀・唐津の市街地から車を走らせ、海の気配が遠のきはじめるころ、風景はゆっくりと山の気配へと移り変わっていく。虹の松原の広がりを背に、鏡山のふもとへと差しかかるこのあたりは、海と山の境界にあたる場所だ。
陽が落ちると、あたりはしんとした濃い闇に包まれ、土と木々の葉の香りが静かに立ち上る。古くから、この一帯にはさまざまな言い伝えが残っているという。海と山が交わるこの場所は、人の暮らしと自然、そして目に見えない気配が交差する「境目」でもあったのかもしれない。
「むかし、むかし、あるところに——」
そう語り継がれてきた言葉のように、細い坂を一歩ずつ上っていくと、いつしか現実から少し離れ、物語の中へと入り込んでいくような感覚に包まれる。そんな昔ばなしのようで、どこか夢のような世界を、そのまま体現する店が、ここにある。

眠っていた古民家に新たな息吹が吹き込まれる
明治時代に建てられたという古民家を、大将の平河直(ひらかわすなお)さんが自らの手で11ヶ月かけて改修した。
土に触れ、壁を剥がし、空間と向き合いながら整えられた店内には、ほどよい余白が残されている。土間へと改装された床、梁の存在感、やわらかな光を落とす照明。そこには、決して「つくられた美しさ」ではなく、時とともに積み重ねられた時間の気配がある。

土間の中央には、もともとあった引き戸をいかして設えられた大きな調理台。その背後には、かつて母屋に眠っていたかまどが据えられ、裏山から切り出した薪がくべられる。煮炊きの中心となるその火は、店の呼吸そのものでもある。

火が入ると、薪がパチパチと静かに爆ぜる音が響く。その音に耳を澄ませていると、旅の疲れや、知らず知らずのうちに積み重なっていた余計な思考や感情が、静かに削ぎ落とされていくように感じられる。かつて屋根に据えられた鬼瓦の恵比寿様の表情は、どっしりと重みがあり、この空間に流れる様をじっと見守っているよう。過去と現在がゆるやかに溶け合い、この場所にしかない時間が、静かに形を持ちはじめている。

大将の平河直さんは、1982年福岡市生まれ。大学では伝統工芸を学び、ものづくりの現場に身を置くなかで、料理の道へと進んだ。
几帳面で清潔感のあるミニマルな店内に、整然と置かれた道具の佇まいを眺めていると、この人が「ものづくりの人」であることが自然と伝わってくる。
料理は、東京・銀座の懐石料理店や、福岡の名店「たらふくまんま」で約4年間腕を磨いたのだという。「どこかの田舎で店を営みたかった」そう語る平河さんが辿り着いたのが、この場所だった。
その土地とその素材のあり様に向き合う
料理に使う野菜の一部は、自らの手で育てている。在来種の野菜を中心に、10種類ほどを育て、土地の風土とともにある味わいを日々確かめながら料理へと落とし込む。
効率や均一性とは異なる、時間の積み重ねによって育まれる滋味。その価値を、静かに皿の上に表現している。
「あるところ」で供されるのは、大将にすべてを委ねるおまかせのコース。あらかじめ決められた献立はなく、その日の海と山の表情を見ながら、手にする素材と向き合い、一皿ずつ組み立てられていく。

唐津の海と山の恵みを、できるだけシンプルに、誠実に調理する。魚介や野菜、米にいたるまで、火の入れ方や塩加減ひとつで印象が変わるからこそ、余計な手を加えず、「素材の持ち味をそのまま届ける」ことを信条としている。
器は唐津のものも多いが、すべてを揃えないことで、かえって自然な「間」が生まれている。
どの料理も素朴でありながら、口に運ぶと素材の輪郭がきれいに立ち上がる。
この日いただいた料理は、さんとう菜と揚げの煮浸し、めかぶ酢、まぐろの刺身、
菜の花と胡麻豆腐の吸い物、ささ烏賊とケール、カリフラワーの焼き物、つくしの卵とじ、せりの天ぷら、ぶり大根。そして、おにぎりと沢庵、梅のおにぎりにちりめん山椒。甘味に桜餅。

この時期に、畑で採れた在来種のさんとう菜は、しゃきっとした歯応えを残しながら、かつお出汁とともに揚げとやさしく煮含められている。
焼き物のささ烏賊は小ぶりでやわらかく、ほどよく火を入れた野菜とともに供される。中でも素揚げした菊芋のわずかな苦味と、皿の上に散らされた小さな青文字の花をわずかに噛むと、滋味の中にふっと個性的で華やかな香りが立ち上がり、印象を変える。ひと口ごとに違いを味わえるのが楽しい。
つくしの卵とじは、都会ではあまり見かけなくなった素材を、だしと卵でシンプルにに綴じた一皿。ほのかなえぐみが春の訪れを感じさせてくれる。せりの天ぷらは、根ごと揚げられ、控えめな苦味が静かに余韻を残す。
たくさん畑で採れたという大根は、しっかりと味の染みたぶり大根に。
料理に寄り添うように、超辛口の「よこやま」から「万齢」、「鍋島」と酒も進んでいく。
炊き立ての白米のおにぎりを手でいただくという贅沢
ひととおりの料理が出されたころ、やがて締めくくりの白米が炊き上がる。釜の木蓋を開けた瞬間、白い湯気とともに立ちのぼる米の香りに包まれ、「釜のご飯をいただく」という行為の本質をあらためて感じさせられる。
さらに、おかわりとして供される梅干しのおにぎりが、食事の終わりにもう一度、身体の奥にやさしく輪郭を与えてくれる。

供されたどの料理も滋味深く、身体にすっと馴染みながら、ゆっくりと余韻を広げていく。その余韻は消えていくのではなく、静かに内側に残り続けるようでもある。
ここでは、料理も空間も時間も切り離されることなく、ひとつの流れとして存在している。
火のゆらぎ、音、香り、人の気配。それらが重なり合い、「食す」という行為を、どこまでも静かに、そして深くしていく。
命をいただくということ。
季節を感じるということ。
会話の間に、ふと心を委ねるということ。
感じ方は、それぞれでいい。
ただ、その時間のなかで、自分の中にある記憶や感覚に、ふと触れる瞬間が訪れる。
それは、どこかにあったはずの、あるいは、どこかにあり続けている「何か」に、出会うような感覚でもある。
食事を終えて外に出ると、夜は深く、空には星が広がっていた。小道を下る足音だけが響くなか、ついさっきまでいた世界が、静かに遠ざかっていく。そして気づけば、物語から現実へと戻っている。
その境界もまた、この場所の一部——つまりは、「あるところ」なのかもしれない。

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本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。