できないことが増えていくという自明なことに目を背けたままでいいのか?
45歳の時やから今から7年ほど前、当時小6やった娘とバディを組んで六甲縦走キャノンボールラン(※1)のスピード部門(公称56km)に出場していた。7時に須磨スタートで最高峰一軒茶屋を14時前に通過するええ感じのペースを維持しつつ残すところは下り基調の東縦走路10km強、恐らくリザルト8時間半くらいでゴールできそうやし小卒の記念にまあええわな言いもって、丁度太平山を越えたあたりの緩い下り、何がどうなったんか全く覚えてないけど大いにすっころんで右太ももを掌大に擦りむいた。
恐らく軽微な段差か根っこにつま先をひっかけたんかなと推察されるが、こんな感じでケガするのは初めてやった。見上げると娘が心配そうな表情でポツリ「荷物が重たかったんちゃう?」と一言掛けてくれたのが、傷の痛みよりもきつかったのを覚えている。これはたまたまの事故や、いわばスリップダウンや、まだまだやれる問題ないと言い聞かせながらゴールまでたどり着いた。
多分これが、ボディコントロールに微妙なズレを感じた初っ端の出来事やったように思う。以降、毎回ではないにせよ、え?まじで?というケガが増えてくる。MTBで鎖骨折ったのが翌年、エグい斜面で滑落したんやなくて、ウォーミングアップ中に駐車場横のスロープで盛大な横転をやらかした。からの1年後には有馬富士周回を走っていて重度の肉離れになる。核心部ではなく下山後、なんてことないコンクリの階段に差し掛かると小さい子ら遊ばせてはる若いお母さん方のグループが屯していたので通りすがりにええカッコしようと軽快に2段ぬかししたら「ヴ」という鈍い音とともに断裂した。その夏の北アルプスでは大キレットから氷河公園経由で下りてきて、ババ平越えてからのフラットな沢沿いで捻挫する。
要するに、どれもこれも全くどうってことないところで事故っていて、もうこうなると「たまたま」で片づけることができなくなってくる。明らかに集中力の維持であったり動作であったり認知であったりに「老い」が忍び寄ってきているという事実について、認めざるを得なくなった。これからは喫緊ではないにせよ、前はできたけどもうアカン、ということが増えてくるだろう。確かにそれは切なく残念なことではあるけれど、この現実をしたたかにチャンスへと変換できないか、そう考えてみることにした。最初のケガから5年後、50歳を迎える年だったと思う。
別の角度から考えなおしたらええやん
できないことは増える、それはしゃーないやん、ということでまず着手したのは運動能力や認知機能の低下傾向から算定し、具体的な「引退」期日を設けることだった。できなくなったらその時に考えたらええやんか、ではなくて、既にかなり面倒くさいおっさん化が進行しているため、このまま後10年もすれば周りの言うことにきく耳もたん頑固ジジイ一丁アガリは必至と予測し、特に周囲への影響が甚大ないくつかの事項について、予め自分で引導を突きつけておくことにしたのだ。
例えばぼくは自費購入車両全てマニュアルミッションという無類の運転好きではあるが運転免許は65歳で返納して引退する、それから登山は長野県及び長野県山岳遭難防止対策協会による「山のグレーディング」(※2)において体力度レベル9以上あるいは難易度レベルEと評定されているルート(及びバリエーションルート)から65歳で引退する、等々である。とはいえ自分は弱い。パンナコッタばりにふにゃふにゃでなおかつ甘い。間違いなくなし崩し的に翻意するだろうことも想定し、(本稿も含め)ことあるごとに公言するように対策した。公言しておけば日和れなくなるからだ。
引退を自己設定し始めたことで、近い将来できなくなることと今ならやれることが明確になり、自分でも驚くほど日々の活動はおろかいちいちの所作にもモチベーションが向上し始めたのだから不思議なもんだ。人間は本質的に自由すぎると堕落し、「制限」や「制約」があればこそ輝くものだといえるが、「老いゆく自分」というフレームの中でどう生きていくのか?ということを改めて定義しなおしてみたら、生い先には「憂い」ではなく「楽しさ」しかないことに気が付いた。
おりしも最近、伝説的バスアングラーの田辺哲夫氏と村田基氏の神対談動画(2017)(※3)見ていたら、「(これまであらゆる釣り方に精通してきたけど)自分の知らない、やったことのない」釣り方をまだまだ追い求めている結果、手がかり足がかりのない「迷子」状態に陥っており、けれどもそれが「楽しい」のだという田辺氏の言及がタイムリーに響いた。内的外的諸々の制限がある中でああでもない、こうでもないとブレイクスルーを自問自答することって、つまり親教師の目を盗みつつ限られた小遣いと乏しいネットワークの中で何かをしようとジタバタしていた子供時代への回帰に相違ないわけで、そりゃ楽しいに決まっているというものだ。
ぼくはジジイになって、だんだんできなくなってきたことをランドセルに詰めなおし、ポンチョに夜明けの風と期待感を孕ませつつ、小学1年生メンタリティに戻ったのである。
リュックサックマーケットのアクセシブル化を推進してみよう

定例以上にマクラが長くなってしまった。本題に入るとしよう。
今年で20周年を迎えた「摩耶山リュックサックマーケット」に、よりアクセシビリティに留意したワンデーを設けたいということでオファーを頂戴し、諸々の手配に着手することになった。
そもそも芦屋高座の滝で開催されていた山岳フリーマーケットイベントの暖簾分けとして2006年から実施されており、当時から申込み不要、出店料不要、商品何でも可、物々交換可というとてつもなく間口の広いレギュレーションであったため、もとよりアクセシブル化の土壌は整っていた。
とはいえ会場は摩耶山掬星台(702m)で上がってしまえば何とかなるものの、移動支援や情報保障の配置にはいろいろ検討する必要がある。とにかく一人でも多くの誰かが山上のフリーマーケットに足を運んでくれたら、ということで、動線の移動は近畿タクシーさんの協力を得て車椅子リフト搭載車両を配備、会場にはアクセシブル総合窓口と筆談ボード設置チェアを5か所設けつつ、アウトドア型車椅子の無料体験コーナー兼マーケットツアー、大阪湾スカイヴューツアー等を実施することにした。

2026年8月15日(土)、開催当日は朝から快晴に恵まれ、泉大津リアライズの岡ちゃん(※4)がはるばる来てくれた他、障害者就労継続支援B型事業所を運営する(社福)すいせい(※5)がB型で製作したいろんな物品を出展しつつアクセシビリティのサポートに、そして神戸市立六甲道児童館館長の金やん(※6)や障害者サポート事業者の伊井くん(※7)にも手伝ってもらい、下界よりはずいぶん爽やかな気温のもと、ある意味非日常な山上のひとときを皆で過ごすことができた。

岡ちゃんをはじめサポートを必要とする人が参加できたということに加え、多くの参加者に「筆談」とか「いろんな車椅子」とか「B型事業所」とかを垣間見てもらったことにも大きな意義があったと思う。既存のイベントをさらにアクセシブル化しようとすると、予算面であったりオペレーションであったり、何かしらフレームワークの変更に伴う「制限」が生じる場合もあるが、結果的に多様なことが巻き起こるという意味で参加者全員の「楽しみ」が増すというのは、毎回いろんな事やっていて結論的に感じる一番重要なポイントである。
このリュックサックマーケットについて、いみじくも「店は多彩だ。ゆで玉子とテキーラを50円で売る若者、ボロボロの文房具を並べる子どもたち、レコードをかけて日本酒を飲ませるお姉さん、わらじを作って売るおじいさん。藁を交換しながら長者を目指すお兄さん、八百屋、石屋、タイ古式マッサージ、理髪店、鍼灸院まで登場した。みんな売れなくても楽しそうだ。」(慈、2026)(※8)という描写がある。
マーケットであるにもかかわらず、もはや販売自体が主たる目的ではなくなっているという視点のスライドが、多様化というフレームでイベントを仕組むことによる真価であるともいえるだろう。
※1 六甲山系縦走路で開催されている全国最大クラスの草レース的イベント
※2 公益社団法人日本山岳・スポーツクライミング協会
https://www.jma-sangaku.or.jp/sangaku/safe_climb/grading/
※3 SHIMANO TV公式チャンネル「情熱対談」#05村田基×田辺哲男「これからの二人」
※4 大阪府泉大津市にあるNPO法人自立生活センター(CIL)リアライズ事務局員、岡田頼幸氏。詳細は本連載「その1」参照のこと。
※5 神戸市垂水区の社会福祉法人「すいせい」
※6 神戸市立六甲道児童館館長、金坂尚人氏
※7 神戸市灘区にて障害者支援事業を展開する伊井統章氏
※8 慈憲一氏による「レジスタンスのまちづくり」(2026)p76
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もっと知りたいあなたへ
池谷の実践note
https://note.com/coe_access_0117
摩耶山ブログ「マヤログ」
https://www.mayasan.jp/mayalog/