クラフトリリース
2026.6.16

霊柩車に親指を隠すあの一瞬の気持ち~ふるさとの迷信シリーズ2~

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霊柩車を見たら、親指を隠せ。

この言い伝えもまた、田舎で育った人なら一度は身体に叩き込まれているのではないだろうか。しかも不思議なのは、これが「そうらしいよ」という雑談ではなく、かなり即時性のある命令として運用されていたことだ。霊柩車が見えた瞬間、大人は言う。

「親指、隠しなさい」

このときの言い方には、妙な切迫感がある。「洗濯物入れて」より早く、「鍋ふきこぼれるよ」より強く、ほとんど反射である。

子どもとしては、最初は意味がわからない。なぜ親指なのか。人差し指でも中指でもなく、なぜそこだけ保護対象なのか。しかも隠したところで、何がどう防げるのか。理屈は曖昧なのに、動作だけははっきりしている。迷信とは、理解より先に仕草が成立するものらしい。

しかも霊柩車というのが、また絶妙に怖い。救急車ほど騒がしくはなく、消防車ほど派手でもない。ただ静かに、つやのある黒い車体で通っていく。その静けさが、子どもにはかえって恐ろしさに感じられた。そこへ「親指を隠せ」が加わると、こちらとしては従うしかない。
田舎には、霊柩車+親の真顔=親指を握るという、証明抜きの公式がたしかにあったのである。

「親指=親」という理屈は、雑なのに妙に強い

この迷信のおもしろいところは、理屈が驚くほど短いことだと思う。親指の「親」は、親の「親」。だから親指を守れば親が守られる。説明としては、ほとんど語呂合わせである。

語呂合わせなのに、なぜか効く。

いや、語呂合わせだからこそ効くのかもしれない。子どもにとって難しい理屈はすぐこぼれ落ちるが、単純な言葉の結びつきは妙に残る。「親指は親」と言われると、なるほどそんな気もしてくる。かなり勢いまかせの象徴化だが、迷信というのはだいたいそういう勢いで前に進む。

しかもこの迷信、自分がどうこうなる話ではなく、親が危ないかもしれないから隠せなのが強い。これがよく効く。自分ひとりの問題なら少し反抗できても、親のことになると子どもは途端に真面目になる。理屈としてはずいぶん荒いのに、感情への届き方だけはやたらと正確だった。

いま思えば、田舎の迷信というのは、論理展開に多少の難がある代わりに、記憶への定着率が異様に高い。証明はないが再現性はある。霊柩車を見るたび、親指に意識が向く。そういう意味では、かなり優秀な生活技術だったのかもしれない。

親指を隠す動きだけは、だれもが妙に速い

街を走行する霊柩車の画像

子どもの頃、霊柩車を見かけると、大人たちは驚くほど手際よく親指を隠した。あれは、普段の片づけなどの行動より速かった。歩いていても、立ち話の途中でも、自転車を押していても、霊柩車が視界に入った途端に、すっと親指を握る。まるで避難訓練のような速さである。普段は「あとでやる」が口癖みたいな人でも、この動作だけは先送りしない。迷信には、人を機敏にさせる力があるらしい。

そして、その速さは子どもにも伝染する。
「え、何?」と思う前に自分も握っている。右手だけでは不安で、左手も握る。念のため両手ともやる。
そこまでやって、何がどう万全になったのかはわからないのだが、少なくとも気持ちは少し落ち着く。

あの一瞬には、少し可笑しいところがある。みんなかなり真面目にやっているのに、やっていることはただ親指を隠すだけなのだ。しかも車の中から見れば、道ばたで急に握り拳をつくる人々である。

冷静に考えると、なかなか独特な風景だったはずだ。

それでも、だれも笑わない。そこは笑う場面ではないと、空気が先に決めている。

迷信は内容そのものより、「この話は真面目に扱うものだ」という空気によって支えられているのだと思う。

わかっていても、いまだに親指が消える

ちょっと呆れたような顔の若い男性の画像

こういう迷信のいちばんすごいところは、大人になっても体が覚えていることだと思う。

頭ではわかっている。親指を隠したからといって、何かが変わるわけではない。霊柩車がこちらの親指を査定しているわけでもない。それでも、いざ見かけると、手が少し動く。

隠すのである。なんなら、かなり自然に。

これはもう、理性と習慣の勝負ではない。習慣の圧勝だ。しかもこちらは、その習慣を完全には笑いきれない。なぜなら、心のどこかにまだ「やっておいた方がいいかもしれない」が残っているからだ。迷信は、信じているかどうかより、無視しきれるかどうかの方が難しい。

そして少し苦笑いする。まだやるんだ、自分。でも、やらないよりはいい気もする。
その半端な感じが、なんとも迷信らしい。

子どもの頃に刷り込まれた動作というのは、案外しぶとい。箸の持ち方とか、靴をそろえる癖とか、霊柩車を見ると親指を隠すとか。最後のひとつだけ毛色はだいぶ違うが、体に残っているという点では同じなのだろう。理屈ではなく、反応として残る。

そういうものを、人はふるさとから受け取っているのかもしれない。

迷信は、親を守りたい気持ちの言い換えだった

いまになって思えば、この迷信は親指の話ではなく、親の話だったのだ。
「親を大事にしなさい」と言うには少し照れくさい。
「死を軽く扱うな」と言うには少し重たい。
そのあいだを通す言葉として、「霊柩車を見たら親指を隠せ」はちょうどよかったのかもしれない。

雑ではある。かなり雑だ。

でも、雑なりにまっすぐでもある。

親指の「親」に、親そのものを重ねてしまう発想は、理屈としてはだいぶ短い。ほとんど最短距離である。けれど、その短さが子どもには効いた。親を守るために親指を隠す。やることは小さいのに、気持ちは大きい。そこに、この迷信の強さがあったのだと思う。

親は、危ないから気をつけろ、命を大事にしろ、家族を大切にしろ、といういろんなことを、いつも正面から言うわけではない。言わずに伝える。少し不思議な形に変えて渡す。その雑であたたかい伝え方が、田舎の大人にはあった。

迷信は、親の「見えない手」だった。少し乱暴で、少し理屈が飛んでいて、でも根っこにはちゃんと情がある。あの一瞬の親指には、そういう家族の気配まで握り込まれていたのかもしれない。

いま思い出すと、親指ひとつにふるさとがある

公園で手を繋いで歩く親子3人の画像

大人になった今でも、霊柩車を見かけると、心のどこかが少しだけあの頃に戻る。

祖母の「親指、親指」と急かす声。あわてて握り込んだ小さな手。

そのときの空気まで、まとめて戻ってくる。

迷信は、理屈だけで見ればずいぶん雑だ。親指を隠したところで何がどうなるのか、説明は足りない。いや、説明という点ではほぼ足りていない。それでも嫌いになれないのは、その雑さの奥に、ふるさとの暮らしがちゃんと入っているからだろう。死を怖がりすぎず、でも軽くもせず、親を大事に思う気持ちだけはしっかり持たせたい。そんな大人たちの感覚が、親指ひとつに圧縮されて、こちらへ手渡されていたのだと思う。

霊柩車を見たら親指を隠せ。いま聞けば、少し可笑しい。でも、少し可笑しいくらいで、たぶんちょうどいい。ふるさとの言葉というのは、たいていそのくらい不器用で、そのぶん忘れにくい。

そしてきっと、これからも私は隠すのだろう。
半分は癖で、半分は気持ちで。
そうやって残っていくものの中に、ふるさとは案外、しぶとく生きている。

―――
もっと知りたいあなたへ「+豆知識」

  1. 地域によっては、霊柩車だけでなく救急車でも親指を隠す
    北部九州などでは、霊柩車に限らず救急車とすれ違ったときにも親指を隠す、という話が見られます。対象が少し広がるあたりに、地域ごとの死や不吉さへの距離感が出ています。
  2. 由来は1つではなく、「親を守る」「魂の出入り口を守る」など複数ある
    「親指の親を守る」という語呂合わせのような説明だけでなく、親指は霊魂の出入口だから死者の魂が入らないよう隠す、という説もあります。地域差というより、土地や家ごとに意味づけが少しずつ違っていたようです。
  3. 昔は霊柩車より前に、葬列を見たら親指を隠す感覚があったともされる
    江戸期の「野辺送り」など、葬列を見たときに親指を隠す風習が前身だったという説もあります。つまり「車を見たら」ではなく、もともとは死を送る列に出会ったらという、もっと広い所作だった可能性があります。

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本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。

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