クラフトリリース
2026.6.4

バリアフリートイレの前で、今日も待つ

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私は車椅子ユーザーである。

私は職場までの通勤に、電車とバスを使っている。

片道およそ1時間弱。それ自体は、さほど珍しいことではないだろう。

いや、私たちの地域では珍しい。「よく行ってるね!」と称賛と驚嘆とかいろんな思いが混じった反応をもらう。

職場がそこなんだもの。行くわよ、私。

私の通勤には、ひとつの「前工程」がある。

電車に乗る前に、必ずトイレを済ませること。

これは習慣というより、必須事項だ。

電動車椅子を使用している私にとって、電車やバスは「途中で降りられない乗り物」である。なぜなら、電車やバスの乗降では、駅員や運転手のサポートが必須なので。

駅員がいなければスロープを出してもらえない。

急にトイレに行きたくなっても、降りられない。

仮に車内で誰かに頼めて降りられたとして、頼むにも、車内で誰かに頼めるかどうか、という判断も、それはそれで神経を使う。

見知らぬ人を「頼めそうな人か」と瞬時に見極めながら、助けを求めるかどうかを考えつづける。

じゃあ、降りられたとして次に乗ろうとするが、次に乗れる保証はまた別の話。最近は無人駅も増えた。

ほら、考えただけでもなかなかのもの。

ちなみに、「ヘルパーに同行してもらえばいいのでは」と思う人もいるかもしれない。でも、それもできない。障害者総合支援法に基づくヘルパー派遣サービスは、通勤のような「経済活動に係る外出」は対象外と定められている。働きに行くためのサポートは、福祉制度の外にある。だから、ひとりで行く。

バリアフリートイレの画像

前置きは長くなったが、だから、電車に乗る前にトイレを済ませる。それだけのこと。

我が家の最寄り駅には、バリアフリートイレが2つある。

これは、恵まれた環境だと思っている。

1つしかない駅も、そもそも使いやすいバリアフリートイレがない駅もある。

2つあるというのは、インフラとしては、きっと手厚いほうだ。

ただ、その2つが同時に「使用中」で塞がっていることは、珍しくない。

トイレを待つ。それが日常である。

待ち時間はその日によって違う。3分ほどで済むこともあれば、20分ほど待つこともある。

実はだれもいなかったとかもある。

ホラーではない。おそらく電子ボタンの仕様のためである。出るときに、中側の「閉」ボタンを押したまま出てしまうことがあるようだ。気持ちはわからんではないが、それでは無人ロック状態だ。

待ちながら、少し迷う。ノックするか、しないか。「待ってますよ」を伝えたい。いや、正直に言えば「早くしてほしい」のだ。でもそれをノックの強さや速さにどう表現するか。ただトイレを待っているだけなのに、なかなかの思考量である。

トイレを待ちつつ、出てくるのは、男性であることが多い。

誤解のないように書いておくと、これは男性への非難ではない。

家族から聞いた話では、男性用の個室トイレは女性用に比べて圧倒的に少ないらしい。

個室でなければ用を足しにくい人も、昨今は少なくないだろう。バリアフリートイレのひとつが、事実上、個室トイレの代わりになっている。そういう構造があるのかもしれない。

誰かが悪いのではなく、ニーズに対して、設備の数が足りていない。

鉄道の駅で車椅子の人を介助する駅員の画像

先にも言ったように、電車に乗るには、駅員さんへの依頼が必要だ。何時の電車に乗りたいかを伝え、駅間で連絡を取り、ホームまで案内してもらい、スロープを出してもらう。

その連絡と準備には一定の時間がかかる。だから私は、駅に着いたらまず乗りたい電車の時間を伝える。

そのあとでトイレへ向かう。

「トイレが終わってから電車を伝えればいいのでは」と思う人もいるかもしれない。でも、それでは間に合わない。依頼してから実際に乗れるまでには、駅間の連絡調整を待つ時間がある。トイレが終わってから時間を伝えていたら、乗れる電車がどんどん後ろにずれていく。

障害があってもなくても、約束の時間の価値は変わらない。1分は1分だ。

でも私らはちょっと時間がかかる。だから早めに来る。

早めに来て、トイレを待つ。

そしてトイレが塞がっていて、電車に遅れそうになる。

ホームで待つ駅員さんから「もう少し早めに来てくれたら」と言われる。

え、私?の問題??なの???

不満や怒りというのは、一度では爆発しない。ポイントカードのようなものだ。

理不尽なことがあるたびに、静かにスタンプが押されていく。

そしていつか、ある日突然、上限に達する。

なんてことないやらかしに対する家族からの稲妻級の怒りに、え!とびびったことがある人も多いかもしれない。

それです、それ。ポイントカード。

その日が私にも来た。

対応してくれた駅員さんに、私は言った。「バリアフリートイレが、よく塞がっているんです」「出てきた人が車椅子だったり、ベビーカーだったりすることは、あまりない。でも、その人たちが本当に必要ではないとは言えない。見た目ではわからないニーズもある。本人に聞くわけにもいかない」「こういうことは、どこに言えばいいんですか」。

駅員さんは少し困ったような顔をして、こう答えた。「市営地下鉄の本部のほうに…私たちは一駅員でしかないので…」。

翌日、地下鉄の運営元に電話した。返ってきた答えは、「現在、サイン表示やピクトグラムのわかりやすさについて検討中です」というものだった。

…ぷんすか。

次の日、駅に着くと、バリアフリートイレの前に「清掃中」の立て看板が置かれていた。

あ、タイミング悪い、と思いながら近づくと、前日、話を聞いてくれた駅員さんが出てきた。

「こうしとったら人が入らんかと思って、置いといてみました」

びっくりした。

「清掃中」はフェイクだった。その駅員さんが、私が来る時間帯に合わせて、看板を立てて待っていてくれていたのだ。

でも、その駅員さんがその駅に勤務している間、私のトイレ問題は、毎朝静かに解決されていた。

駅員さんには異動がある。だからいつまでも続いたわけではない。

でも、確かに、その時間があった。

バリアフリートイレのサインの画像

バリアフリーという言葉は、設備の話として語られることが多い。スロープがある、エレベーターがある、対応トイレがある。数えられて、整備率として報告される。それは必要なことだ。

でも、そのとき、私が救われたのは、設備ではなかった。

運営元でも、専門職でも、福祉制度でもなかった。一人の駅員さんが「この人、困ってるな」と気付いて、自分にできることを考えてくれた。ただ、それだけだった。

ちなみにその駅員さんは違う駅で勤務している。たまに会うと「あらー、元気しとるですか!」と声をかけてくれる。

日常には、思わぬところで、思わぬ助けがあることがある。しかも、とても日常に即していて、毎日がちょっと過ごしやすくなるような。

それは規則でも研修でもない。

支援や配慮は、専門家や制度の側だけのものでもない。

その人が「気になった」「気づいた」という、ただそれだけのこと。

それが、日常の中にあるインクルージョンだ。

そこに、合理的配慮という言葉が先にあったわけではないと思う。

看板を立てて待っていてくれたあの朝のことを、私はきっとずっと忘れない。

制度が追いつかない場所で、誰かがそっと動いてくれる。

そういう社会であってほしいと思うし、私自身もそういう人でありたいと思っている。

ライター:ダノリ

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