私は車椅子ユーザーである。
私は職場までの通勤に、電車とバスを使っている。
片道およそ1時間弱。それ自体は、さほど珍しいことではないだろう。
いや、私たちの地域では珍しい。「よく行ってるね!」と称賛と驚嘆とかいろんな思いが混じった反応をもらう。
職場がそこなんだもの。行くわよ、私。
私の通勤には、ひとつの「前工程」がある。
電車に乗る前に、必ずトイレを済ませること。
これは習慣というより、必須事項だ。
電動車椅子を使用している私にとって、電車やバスは「途中で降りられない乗り物」である。なぜなら、電車やバスの乗降では、駅員や運転手のサポートが必須なので。
駅員がいなければスロープを出してもらえない。
急にトイレに行きたくなっても、降りられない。
仮に車内で誰かに頼めて降りられたとして、頼むにも、車内で誰かに頼めるかどうか、という判断も、それはそれで神経を使う。
見知らぬ人を「頼めそうな人か」と瞬時に見極めながら、助けを求めるかどうかを考えつづける。
じゃあ、降りられたとして次に乗ろうとするが、次に乗れる保証はまた別の話。最近は無人駅も増えた。
ほら、考えただけでもなかなかのもの。
ちなみに、「ヘルパーに同行してもらえばいいのでは」と思う人もいるかもしれない。でも、それもできない。障害者総合支援法に基づくヘルパー派遣サービスは、通勤のような「経済活動に係る外出」は対象外と定められている。働きに行くためのサポートは、福祉制度の外にある。だから、ひとりで行く。

前置きは長くなったが、だから、電車に乗る前にトイレを済ませる。それだけのこと。
我が家の最寄り駅には、バリアフリートイレが2つある。
これは、恵まれた環境だと思っている。
1つしかない駅も、そもそも使いやすいバリアフリートイレがない駅もある。
2つあるというのは、インフラとしては、きっと手厚いほうだ。
ただ、その2つが同時に「使用中」で塞がっていることは、珍しくない。
トイレを待つ。それが日常である。
待ち時間はその日によって違う。3分ほどで済むこともあれば、20分ほど待つこともある。
実はだれもいなかったとかもある。
ホラーではない。おそらく電子ボタンの仕様のためである。出るときに、中側の「閉」ボタンを押したまま出てしまうことがあるようだ。気持ちはわからんではないが、それでは無人ロック状態だ。
待ちながら、少し迷う。ノックするか、しないか。「待ってますよ」を伝えたい。いや、正直に言えば「早くしてほしい」のだ。でもそれをノックの強さや速さにどう表現するか。ただトイレを待っているだけなのに、なかなかの思考量である。
トイレを待ちつつ、出てくるのは、男性であることが多い。
誤解のないように書いておくと、これは男性への非難ではない。
家族から聞いた話では、男性用の個室トイレは女性用に比べて圧倒的に少ないらしい。
個室でなければ用を足しにくい人も、昨今は少なくないだろう。バリアフリートイレのひとつが、事実上、個室トイレの代わりになっている。そういう構造があるのかもしれない。
誰かが悪いのではなく、ニーズに対して、設備の数が足りていない。

先にも言ったように、電車に乗るには、駅員さんへの依頼が必要だ。何時の電車に乗りたいかを伝え、駅間で連絡を取り、ホームまで案内してもらい、スロープを出してもらう。
その連絡と準備には一定の時間がかかる。だから私は、駅に着いたらまず乗りたい電車の時間を伝える。
そのあとでトイレへ向かう。
「トイレが終わってから電車を伝えればいいのでは」と思う人もいるかもしれない。でも、それでは間に合わない。依頼してから実際に乗れるまでには、駅間の連絡調整を待つ時間がある。トイレが終わってから時間を伝えていたら、乗れる電車がどんどん後ろにずれていく。
障害があってもなくても、約束の時間の価値は変わらない。1分は1分だ。
でも私らはちょっと時間がかかる。だから早めに来る。
早めに来て、トイレを待つ。
そしてトイレが塞がっていて、電車に遅れそうになる。
ホームで待つ駅員さんから「もう少し早めに来てくれたら」と言われる。
え、私?の問題??なの???
不満や怒りというのは、一度では爆発しない。ポイントカードのようなものだ。
理不尽なことがあるたびに、静かにスタンプが押されていく。
そしていつか、ある日突然、上限に達する。
なんてことないやらかしに対する家族からの稲妻級の怒りに、え!とびびったことがある人も多いかもしれない。
それです、それ。ポイントカード。
その日が私にも来た。
対応してくれた駅員さんに、私は言った。「バリアフリートイレが、よく塞がっているんです」「出てきた人が車椅子だったり、ベビーカーだったりすることは、あまりない。でも、その人たちが本当に必要ではないとは言えない。見た目ではわからないニーズもある。本人に聞くわけにもいかない」「こういうことは、どこに言えばいいんですか」。
駅員さんは少し困ったような顔をして、こう答えた。「市営地下鉄の本部のほうに…私たちは一駅員でしかないので…」。
翌日、地下鉄の運営元に電話した。返ってきた答えは、「現在、サイン表示やピクトグラムのわかりやすさについて検討中です」というものだった。
…ぷんすか。
次の日、駅に着くと、バリアフリートイレの前に「清掃中」の立て看板が置かれていた。
あ、タイミング悪い、と思いながら近づくと、前日、話を聞いてくれた駅員さんが出てきた。
「こうしとったら人が入らんかと思って、置いといてみました」
びっくりした。
「清掃中」はフェイクだった。その駅員さんが、私が来る時間帯に合わせて、看板を立てて待っていてくれていたのだ。
でも、その駅員さんがその駅に勤務している間、私のトイレ問題は、毎朝静かに解決されていた。
駅員さんには異動がある。だからいつまでも続いたわけではない。
でも、確かに、その時間があった。

バリアフリーという言葉は、設備の話として語られることが多い。スロープがある、エレベーターがある、対応トイレがある。数えられて、整備率として報告される。それは必要なことだ。
でも、そのとき、私が救われたのは、設備ではなかった。
運営元でも、専門職でも、福祉制度でもなかった。一人の駅員さんが「この人、困ってるな」と気付いて、自分にできることを考えてくれた。ただ、それだけだった。
ちなみにその駅員さんは違う駅で勤務している。たまに会うと「あらー、元気しとるですか!」と声をかけてくれる。
日常には、思わぬところで、思わぬ助けがあることがある。しかも、とても日常に即していて、毎日がちょっと過ごしやすくなるような。
それは規則でも研修でもない。
支援や配慮は、専門家や制度の側だけのものでもない。
その人が「気になった」「気づいた」という、ただそれだけのこと。
それが、日常の中にあるインクルージョンだ。
そこに、合理的配慮という言葉が先にあったわけではないと思う。
看板を立てて待っていてくれたあの朝のことを、私はきっとずっと忘れない。
制度が追いつかない場所で、誰かがそっと動いてくれる。
そういう社会であってほしいと思うし、私自身もそういう人でありたいと思っている。
ライター:ダノリ