クラフトリリース
2026.4.10

築城名人藤堂高虎が遺した優れた水城・今治城を歩く〜愛媛県・今治市〜

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瀬戸内海に面した海上交通の要衝である愛媛県今治市。街の中心では高松城や中津城と並んで「日本三大水城」に名を連ねる今治城が海を挟んで天守を構え、海陸一体の城下町として独特な様相を呈している。今回はこの水運を味方につけた今治城の特色と知る人ぞ知る名城を築いた知将について順を追って紹介していきたい。

築城名人 藤堂高虎 

今治城を語る上で欠かせない存在、それは伊予今治藩主にして今治城を築いた藤堂高虎(とうどうたかとら)である。戦国時代(1556年)から江戸時代前期(1630年)まで活躍していた藤堂高虎は、生涯8人もの君主に仕えており、なんと豊臣秀吉と徳川家康の両名に重用されていたという経歴がある。君主を転々とした逸話から不義理な武将だという風評を受けることもあるが、一生を通して外様の身でありながら重用されていたという事実は非常に優れた人物だったことの証左ではないかと筆者は考える。

また、高虎自身も暇乞いを申し出る家臣には餞別として太刀を与えて快く送り出し、逆に他家から出戻る家臣も温かく迎え入れるという懐の深い逸話もある。筆者個人の見解であるが、高虎は自身の能力を発揮できるならば場所にこだわらないという考えを持つ今風の人物だったのではないかと推察している。

文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いなどで活躍し、その武功から高虎は伊予半国およそ二十万石を与えられて今治藩主となった高虎だが、彼が最も優れた能力を発揮したのは城郭建築技術についてである。藤堂高虎は黒田官兵衛、加藤清正に並び「築城三名人」と称されているほどの人物だ。

今治城天守閣をバックに桜の中に立つ藤堂高虎の像の画像

高虎が築城名人として讃えられたのは単に土木技術に秀でていたからではない。発想力豊かで先人の道を踏襲しない開拓者としてのスタイルと、都市機能と防衛能力を両立させた城郭を、動乱の戦国自体から平和な江戸時代への流れを汲んで設計した慧眼故である。

もともと今治には能島(のしま)村上水軍の居城である国府(こくぶ)城が唐子山(からこやま)の上にあった訳だが、高虎は海岸の砂州に城と城下町を造った。

交通の利便性が高い海岸部に城を置くことで経済活動の拠点にするとともに、海で囲むことで防衛能力を両立させている。今治城は非常に優れた城であったが高虎は藩主となった8年後に伊勢国へ転封した。あっさりと城を手放した高虎だったが内心では今治城にどんな思いを馳せていたのかは気になるところだ。

復元された今治城

現在私たちが見る今治城の姿は江戸時代の建物がそのまま残っているわけではない。明治維新後、日本各地の城と同様に今治城は廃城となり取り壊されることとなった。しかし再建を望む声は大きく、1980年にその望みは実を結び、天守・多聞櫓・武具櫓がこの年に再建・復元された。その後も2007年に至るまで着々と復元が行われ、現在の今治城が在る。

現在の天守は史料を基に建てられた模擬天守であり、実際の天守は現在よりやや南に位置したとされている。天守内部は資料館となっており、貴重な当時の武具や道具、今治藩や藤堂高虎についての歴史はもちろん、堀付近の生態についての展示まで鑑賞することができる。

また天守最上階からの眺めは来島(くるしま)海峡、燧灘(ひうちなだ)、唐子山稜を含む今治市街地や瀬戸内海を見渡すことができ、天気のいい日は石鎚山(いしづちさん)を拝める。瀬戸内の風を浴びながらの景観は至上というほかないだろう。

今治城天守からの眺望の画像

ほとんどの建造物が再建されたものである一方、内堀と主郭部の石垣は当時からその姿を残す貴重な遺構である。次の章では石垣の特徴と入口である鉄御門(くろがねごもん)について解説する。

鉄壁の枡形虎口と現存する石垣

城郭の防御において要となるのが石垣と門である。2007年に再建された鉄御門と未だ再現されずの幻の門、高麗門(こうらいもん)が今治城正面の城門であり、石垣の上に長く連続して建てられた櫓、多聞櫓(たもんやぐら)とが組み合わさって鉄壁の守りを誇る枡形虎口(ますがたこぐち)を構成している。

枡形虎口は枡形の三方を囲った長屋状に配置された櫓と二つの門により構成された虎口で、ここに敵を誘い込むことで二つの門で敵の動きを制限しつつ、三方向かつ高所から一方的に敵を殲滅することができる。

当然通りたくない門だが、周りを堀に囲まれた今治城では土橋を通って侵入できる主要な入口のため、攻め込むためには通らざるを得ないのだ。最も強固な虎口とされている枡形虎口、藤堂高虎がそれを高度に発展させた。今治城でも完成度の高い形を見ることができ、その後の日本の虎口のモデルとなっている。

櫓から狙う足軽を配した今治城天守内の展示
鉄御門の中にある石落としの画像

石垣もまた特徴的な作りであり、花崗岩や石灰岩といった大石を、ほとんど加工しないで積み上げた野面積み(のづらづみ)という手法で築かれている。またこれらの石は瀬戸内海の大三島(おおみしま)、小大下島(こおげじま)、岡村島(おかむらじま)辺りで切り出され、海を渡って運ばれてきた可能性が高く、運びやすさを優先して海近くのものを切り出したとされている。そのため、貝殻の付着した部分が散見される。

本丸・二之丸の石垣下の水際には犬走りと呼ばれる細長い平坦地が巡らされている。犬走は犬が通れるくらいの狭い空間という意味だが、今治城の犬走は幅3.6mと広く、軟弱な地盤の上に高石垣を築く際に安定させる役割がある。犬走りに植えられた松は、満潮時は海に浸かるが枯れない。犬走りと併せて松も地盤を安定させている。

今治城の犬走りとそこに植えられた松の画像

そんな石垣で一際目を引くのが、門の前にある大きな白い石「鏡石」だ。これは城の威厳を示す象徴的な石として用いられていたもので、大きければ大きいほど城主の力を誇示するものであり、今治城の鏡石は特に大きい。なんと縦2.4m、横4.6mもの大きさがあり、これを玄関である門の前に置くのは非常に大胆と言える。そして今治城の鏡石は勘兵衛石と名付けられており、これは藤堂高虎の重臣、渡辺勘兵衛に由来するものである。知将藤堂高虎の人間味が鏡石には凝縮されている。

今治城の勘兵衛石の画像

海城としての今治城と海に交わる堀

最後に、今治城最大の特色である海城としての特徴と堀について改めて触れていきたい。一般的な城の堀は雨水や地下水を利用する淡水の堀であることが多いが、そこは海城。海水を直接引き込んだ堀の中央に、まるで浮かぶように今治城は佇んでいる。このため堀の水位は潮の満ち引きによって変化し、訪れる時間帯によって多様な顔を見せる。堀の中にはタイやボラなどの海水魚が生息しており、城の堀とは思えない生態系を構築している。画像:今治城の内堀に海水を引き込んでいる場所の画像

上述した通りに、海城は軍事的にも物流的にも非常に優れており、海水を利用した広い堀は敵が城壁に接近することを困難にし、防御上の障害として大きな役割を果たした。また潮の満ち引きによって水位が変化するため、攻撃側が水深を正確に把握することが難しく、防御側に有利な条件が生まれるという効果もあったと考えられている。

瀬戸内海は古くから日本の主要な海上交通路であり、多くの船が往来する重要な航路であった。特に今治周辺には来島海峡があり、この海域は潮流が速く航行が難しいことで知られていた。そのため、この地域では古くから海上交通を掌握することが重要であり、城が海に面して築かれたことにも大きな意味があったと考えられる。後者において活躍した設備が内堀にある船入であり、城内から直接船を漕ぎだしての出入りが可能で、海上交通と円滑にアクセスし、海城としての機能を最大に発揮できるようになっている。またこの船入の構造は港湾機能の原型の一つと考えられており、今治港へと継承され、海事都市今治のルーツの一つになっている。

直接出入りが可能なように内堀の一部が船入になっている今治城の堀の画像

今治城は語り尽くせないほどの特色をもった藤堂高虎の英知の結晶であり、今治市オリジンのみにとどまらず、城郭史の革新でもある。一度は壊されてしまったものの、多くの人の声に応える形で先人の知と足跡に触れるためにこの世に再生されている。

生まれ変わった今治城の天守で海風を浴びてみるのはどうだろうか? 風が海に溶け出した歴史を運び、得も言われぬ感動となってあなたに届くだろう。

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もっと知りたいあなたへ

今治城
https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/imabarijo/
今治地方環境協会
https://www.oideya.gr.jp/spot-c/imabarijo/
いよ観ネット
https://www.iyokannet.jp/spot/201

本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。

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