和栗がつなぐ風土と文化、秋を丸ごと味わいに産地と歴史の旅へ

朝の空気に少しだけ冷たさが混じると、不思議なことに街角の和菓子店に栗菓子が並んでいるのが目に飛び込んでくる。丸く艶やかな殻は、秋そのものを凝縮したように輝き、手に取った瞬間、ほのかな甘い香りを想像して胸が高鳴る。栗はただの食材ではない。湯気を立てる栗ごはんや、ほくほくの焼き栗を思い浮かべただけで、季節が一気に近づいてくる。
日本の栗──つまり「和栗」は、世界に誇れる味だ。
欧州のマロンや中国の栗と比べると小ぶりだが、しっとりとした肉質と控えめで奥行きある甘みが特徴で、和菓子や家庭料理に寄り添う優しい風味を持っている。代表的な品種だけでも「銀寄・丹波栗(ぎんよせ・たんばぐり)」「筑波(つくば)」「丹沢(たんざわ)」と個性はさまざま。銀寄・丹波栗は甘味が強く古来より「大粒の極み」として珍重されてきた。
品種ごとに香りや食感が違うからこそ、食べ比べの楽しみも広がる。栗と日本人の縁は深い。縄文時代の遺跡からは炭化した栗が見つかり、稲作が広まる以前から私たちの暮らしを支えてきたことがうかがえる。俳句や随筆でも「秋の象徴」として繰り返し詠まれてきた。千年を超えて人々の舌と心を満たしてきた和栗は、まさに季節を告げる贈り物である。
産地と文化が育んだ栗の物語
和栗の魅力を語るとき、欠かせないのはやはり「土地」だ。栗はどこで育つかによって姿も味も変わる。山の斜面に根を張り、昼夜の寒暖差を浴び、秋の光をたっぷりと受けて実る。その土地の空気や土、水の記憶をまるごと宿しているからこそ、産地ごとに個性があり、物語がある。
まずは名実ともに日本一といわれる丹波の栗。平安の昔から貴族に珍重され、幕府への献上品にも選ばれた「丹波栗」は、一粒がまるで拳ほどの大きさを誇る。ほくほくとした食感と、噛むほどに広がる甘さは、初めて口にした人を黙らせるほどだ。秋になると地元の祭りでは収穫を祝う太鼓の音が響き、直売所には早朝から長蛇の列ができる。丹波栗は単なる農産物ではなく、人と人を結び、秋の訪れを高らかに告げる風物詩そのものなのだ。

一方、長野県の小布施町(おぶせまち)は、町ぐるみで栗を文化にまで育て上げた特別な土地だ。江戸時代、将軍家に献上された「小布施栗」はその品質の高さで知られ、以来「栗の町」として歩んできた。
今も街を歩けば、栗をモチーフにした看板や建物が並び、和洋菓子店のショーケースにはモンブランから羊羹まで、栗を主役にした甘味がずらりと並ぶ。小布施町の栗菓子を味わうということは、町の歴史と誇りを口に運ぶようなものだ。訪れる人々は「栗を食べに来た」のではなく、「栗の町そのものを体験しに来た」といったほうが近いかもしれない。

そして、岐阜県の恵那市・中津川市。ここでは「栗きんとん」が秋の代名詞として君臨している。蒸した栗と砂糖だけで練り上げるシンプルな菓子は、手のひらにのる小さな宝石のよう。口に含むとほろりとほどけ、山里の静けさや秋の風が舌に広がる。
店ごとに微妙に異なる甘さや食感を食べ比べるのもまた楽しい。街の菓子店を巡ると、職人の誇りと技が生み出す「栗の芸術」に出会える。恵那市や中津川市では、栗はただの特産物ではなく、人々の暮らしと四季のリズムを刻む大切な存在なのだ。
栗きんとんだけじゃない!岐阜県中津川市「すや」の季節の和菓子を楽しもう

関東に目を移せば、また違った風景が広がる。茨城や埼玉の丘陵地には、都心から車で1〜2時間の距離に広大な栗畑が点在し、秋になると観光農園は家族連れで賑わう。子どもたちがイガを拾い上げたときの歓声、農家の人が笑顔で手渡してくれる採れたての栗――都会の喧騒を離れて過ごすひとときは、何ものにも代えがたい。直売所には栗だけでなく、地元ならではの加工品や焼き栗も並び、その土地でしか味わえない季節の息吹を感じられる。
こうして産地を巡ると、栗は単なる食材以上の存在だと実感させられる。文学の中にも、その姿はたびたび登場してきた。読み人知らずの句「栗拾ふ子のうしろや山の道」に描かれるのは、子どもたちが栗を拾う素朴な情景。秋の日差しの下で、笑い声とともに広がる里山の時間が目に浮かぶ。
また、かつて栗は飢饉の際に人々を救った大切な食糧でもあった。前述のように縄文時代の遺跡からは炭化した栗が出土し、稲作以前には主食に近い役割を果たしていたことがわかっている。栗は優美な菓子の原料であると同時に、人々の生を支え、文化を育んできた「生命の糧」でもあったのだ。
丹波、小布施、恵那、中津川、関東──それぞれの地で育まれた栗は、味わいだけでなく土地の誇りや物語を宿している。ひとつひとつの栗を手に取ると、その背後に何百年も積み重なってきた人々の営みが透けて見える。栗を味わうということは、土地と人の歴史に触れることでもあるのだ。
栗を訪ねる旅へ

秋晴れの空の下、足元に転がるイガを踏まぬように避けながら栗畑を歩く。
手袋をはめ、殻の中からつやつやと顔をのぞかせる実を拾い上げる瞬間の高揚感。まるで宝探しをしているようで、子どもも大人も夢中になる。
採れたての栗をその場で蒸して頬張れば、口いっぱいに広がる優しい甘さに思わず笑みがこぼれる。スーパーの袋に入った栗を、家で調理したのでは味わえない、自然と一体になった豊かさがそこにはある。
直売所をめぐるのも、この季節ならではの楽しみだ。木箱にごろごろと並んだ栗はもちろん、地元のおばあちゃんが作った栗おこわや、焼きたての栗饅頭、栗ジャムまで揃い、まるで小さな栗の博覧会。どれを手に取ろうか迷っていると、生産者の方が「今朝採れたばかりだよ」と笑顔で声をかけてくれる。その一言で、栗が単なる商品ではなく、この土地で生きる人の物語であることを実感する。
そして、秋の祭りやイベントに参加すると、栗の魅力はさらに深まる。丹波の「栗祭り」では、太鼓や踊りのにぎわいの中で巨大な栗が振る舞われ、小布施では町全体が栗一色に染まり、モンブランを求める人々の行列ができる。そこに集まるのは観光客だけではなく、地元の人々の誇りと喜びだ。
産地で味わう栗は、ただの「秋の味覚」ではない。風土と人の営みをまるごと感じる体験なのだ。山の斜面に実った栗を拾い、地元の台所で料理され、祭りで賑わう姿を目にすると、栗の奥に隠された歴史や文化まで舌で感じられるようだ。
今年の秋は、ぜひ栗の里へ足を運んでみてほしい。一粒の栗が、あなたにとっての「秋の物語」をきっと新しくしてくれるはずだ。
秋の恵みを手のひらに
和栗をひと粒口に含むと、そこには単なる甘さや香ばしさを超えた豊かな味わいがある。縄文から現代まで、人々の食を支え、文学や祭りに姿を変え、今もなお産地ごとに生き生きと受け継がれている栗。その背後には、山や畑を守り続ける人の手と、土地の記憶が重なっている。
丹波の大粒の栗をほくほくと割るとき、小布施の街角でモンブランを買い求める行列に並ぶとき、恵那の老舗で栗きんとんを口にしたとき、私たちは無意識のうちに「文化を食べている」。それは地元の誇りであり、祖先から脈々とつながる暮らしのリズムそのものだ。栗を味わうことは、風景や歴史、そして人の思いと一緒に季節を噛みしめることにほかならない。
だからこそ、今年の秋は少し足を延ばしてみてはどうだろうか。観光農園で土の香りを吸い込みながら栗を拾い、直売所で農家の人々の笑顔に触れ、祭りのざわめきの中で土地の熱気を肌で感じる。その体験は、スーパーの棚から栗を買うことでは決して得られない。五感のすべてで「秋の恵み」を受け止める時間になるだろう。
栗は、ただ口にするだけではなく、訪れ、触れ、語らうことでさらに輝きを増す。手のひらに収まる丸い実の中に、豊かな日本の秋が丸ごと詰まっているのだ。
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もっと知りたいあなたへ
農林水産省 aff(あふ)2019年10月号
https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1910/spe2_01.html
JAグループ 秋の旬くだものクリ(栗)
https://life.ja-group.jp/food/shun/detail?id=69
京都府(丹波栗)
https://www.pref.kyoto.jp/c-no-mori/tannbakuri.htm
長野県小布施町
https://www.town.obuse.nagano.jp/
恵那市公式観光サイト え~な恵那(栗きんとん)
https://www.kankou-ena.jp/gourmet/kurikinton.php
一般社団法人 中津川観光協会 なかつがわ(栗のまち中津川)
https://nakatsugawa.town/attractive-malon-town/