2025.1.27

戦後から75年間の銀座を見てきたレストラン。その変わらない意思(前編)

ナイルレストランは日本最古のインドレストラン

わたしが東銀座にある「ナイルレストラン」に通い始めたのは、80年代半ばくらいからではなかったかと記憶している。随分若い頃から通っていた。頻繁というわけではないのだが、切らさずずっと、という距離感で今も歌舞伎座の向かいへと足を運ぶ。

ナイルレストランは1949年創業、日本最古のインドレストランとして知られている。今でこそインドレストランが小さな駅前でも複数ある光景など珍しいものではなくなったが、昔はインドレストラン、都内でも10指で数えられるほどしかなかった時代があったのだ。

A.M.ナイルさんと太平洋戦争。ナイルレストランの創業

創業者のA.M.ナイル氏はインド・ケーララ州トリヴァンドラムの出身。当時、インドという国は存在しなかった時代。英国領インドという植民地の頃の話だ。

若い頃からインドの独立運動に参加、それにより当局からマークされ避けるように日本へ留学を試みる。京都帝国大学工学部で軍将校と知り合ったり日本に亡命中のインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース(新宿中村屋にかくまわれていた)との出会いもあった。歴史上の人物と言って間違いではない。

大アジア圏という思想のもとインド独立運動と日本陸軍を結びつけ、日本でのインド独立運動のキーマンとして活躍。終戦により通訳などの仕事も減ってインドに帰ることを考えるも独立と日印友好の強い想いは変わらず、1949年に現在の銀座にて日本初の本格インド料理店「ナイルレストラン」を開業することとなる。

ナイルレストランの昔話

むかしむかしの話である。ナイルレストランは1度火事で焼け落ちている。その前の話だ。当時たしか店のドアが濃い紫色のガラス扉だったと記憶している。昭和の中頃、そういうガラスドアが喫茶店やスナックの入り口に使われ、流行っていた。青年になる前のわたしには少々ハードルの高い雰囲気ではあった。そんなほつれた記憶の糸を辿っていくと、色々と思い出すことがある。

同じ時期の店内のテーブル、確かベージュのテーブルだったと記憶しているが「日印友好」と天板に大書きされており、それを眺めながら名物の「ムルギーランチ」を頬張るのを楽しみとしていた。

当時、ナイルレストラン創業者のA.M.ナイル氏にお声をかけられた記憶も残っている。白い長い顎鬚のインド人が急にわたしの席に座ってきて、ひとことふたことかわすといきなりわたしのスプーンは取り上げられ、どんどんカレーを混ぜられたのだ。いまでこそ「まじぇて」は有名なセリフなのだが、当時何も知らなかった子どものわたしは大いに驚愕した記憶が強く残っている。

これは後でナイルレストラン現代表のナイル善己氏に聞いて確かめた。「ああ、多分それ僕のじいちゃんです」と教えてくれた。

実はわたしは四半世紀ほど前、歌舞伎座裏の飲食店で仕事をしていた時期があった。至近にあるナイルレストランは通し営業、自分の店の昼営業が終わってからでもメシにありつけるわけである。前掛け姿のままお邪魔したことなどもあったのだが、そんなお客も差別なくもてなしてくれる懐深さがあるのがナイルレストランなのだ。

歌舞伎役者も焼鳥屋の店員もここでは平等。なんというか、そういう矜持や姿勢があるのが銀座の名店と呼びたくなる所以。インドレストランではなくて「銀座のいい店」という感覚があり、それこそが老舗の威厳、老舗たる理由なのではないか、など想像ができる。

「ナイルレストラン」は好きとか大事とか個人レベルの話しではなく、そういうものを越えて日本のカレー遺産と呼んでもいいほどで、日本の食の歴史にとって重要な店だと考えている。

もっと知りたいあなたへ
ナイルレストラン https://www.ginza-nair.com/