2026.1.13

華やかさの隣にある静けさの余白を歩く大人散歩〜長野県・信濃追分宿〜

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五十路に入ってからは、気づけば旅先を選ぶときに、華やかな刺激よりも心を整えてくれる静けさを求めている。長野県・軽井沢町の信濃追分宿は、まさにそうした「大人のための旅先」だ。華やかな軽井沢の隣にありながら、観光地の喧騒を一歩離れるだけで、空気の密度が変わったような落ち着きが訪れる。

ここには、時の流れの残響や人の営みの痕跡が静かに息づき、旅人を温かく迎え入れてくれる深い懐がある。歴史の面影を伝える宿場町である追分。文学、工芸、食文化などから多面的にその魅力を紹介してみたい。

中山道と北国街道が分岐した追分宿の歴史

信濃追分宿は、中山道六十九次の二十番目の宿として栄えた町である。江戸から京都へ向かう大動脈・中山道と、日本海側へ抜ける北国街道がここで分岐することから「追分」と呼ばれた。旅人の往来は絶えず、時には文化人や漂泊の俳人が滞在し、宿場の空気に独自の風雅をもたらしたのだ。

周囲には浅間山をはじめとする山々が連なり、標高約1000メートルの冷涼な気候は、夏には多くの避暑客を惹きつけた。軽井沢が国際的な観光地として発展する以前から、この追分の地は静けさと自然の力を背景に、多くの人々の心をとらえてきたのである。

今日でも街道沿いには、当時の石垣や土蔵、旅籠の名残が点在し、かつての宿場町の面影を静かに、しかし色濃くとどめている。観光というより「歴史を歩く」という表現がふさわしい場所だ。

追分宿郷土館――宿場の記憶を紐解く小さな博物館

追分宿郷土館の冬、入口方向からの画像

追分の歴史をより深く理解するために、ぜひ訪れてほしいのが追分宿郷土館だ。
この博物館には、江戸から昭和にかけての追分の暮らしや宿場文化をわかりやすく紹介する展示が充実している。

館内には、旅籠の調度品、古文書、地元の生活用品、そして街道を行き交った人々の記録が並び、静かだが濃密な時間が流れる。案内板に書かれたエピソードに目を通すだけでも、追分がいかに重要な交通の要衝であったかがわかる。また、宿場の地図や往時の道具を見ていると、今しがた歩いてきた街道の姿が歴史のレイヤーをまとって立ち上がってくる感覚があり、不思議な気分を味わえるのだ。

大規模な博物館ではないが、その規模ゆえに、展示物に向き合う時間が親密とでもいおうか。それが大変心地よい。追分の旅を始める前に訪れれば、散策の視界がぐっと豊かになるだろう。

かつての旅籠「油屋」に漂う静かな品格

油屋の軒先から建物を見た画像

追分宿を象徴する建物のひとつが、油屋である。
油屋は江戸後期に建てられた旅籠を前身とし、昭和12年に焼失した本館を翌13年に復興したものが現在残る油屋本館である。この復興には当時の著名な文筆家である堀辰雄、立原道造、室生犀星などが募金活動をした。

現在は地域文化の拠点として活用されているが、黒い梁の重厚な佇まい、街道に面した軒、当時の構造を生かした内部空間は、宿場町の美意識を訪れるものに語りかける。

館内には、宿場の歴史を物語る資料が展示されている。ギャラリースペースが設けられ、季節によってさまざまな企画が催される。旅館の建物らしい廊下を歩く「油や回廊」には、古書店や古いレコードを扱う店、地元作家のクラフト作品が並ぶ店などが集まっていて、追分の新旧の文化が穏やかにつながっているのが感じられて楽しい。

訪れて初めてわかることなのだが、この油屋には「ゆっくりしていきなさい」と語りかけるような柔らかな空気が漂っている。軽井沢の華やかなレストランやギャラリーとは異なり、歴史の厚みに守られた空間が大人な旅人の時間をそっと包み込んでくれるように思う。

堀辰雄文学記念館――森に抱かれた文学の聖地

堀辰雄記念館・堀辰雄の書斉内部本棚の画像

追分と文学の関係を語るうえで避けて通れないのが、堀辰雄である。
「風立ちぬ」「美しい村」で知られる堀辰雄は、生涯にわたり追分を愛し、多くの創作をここで生み出した。

堀辰雄文学記念館は、森に囲まれた静かな敷地に佇む。展示されている原稿、書簡、愛用品には、堀辰雄が追分の自然や空気に抱かれて暮らした時間が濃密に刻まれている。作品に漂う透明感や余白の美は、この土地の空気そのものだと実感するだろう。

敷地近くには、文士たちが歩いた「文学の道」も整備され、森の匂いと光の揺らぎの中で、物語の源泉に触れるような散策が楽しめる。追分に滞在した文士たちは多く、堀のほかに、立原道造、福永武彦、加藤周一などが有名である。他にも著名な文人や学者が追分を好んで訪れていた。軽井沢とはまた違った静かな時間の流れと豊かな自然が、彼らの執筆活動を支えていたのだろう。

文才は全くないが、ここで過ごす静かな時間が、旅の質を深く豊かにするのは間違いのないところだ。

信濃の伝統工芸に触れる――手仕事の静けさと旅の余白

追分を歩いていれば、自然とたくさんの信州の伝統工芸品に出会う。
古民家を改装したギャラリーや小さなクラフトショップには、木曽漆器の椀、松本の木工、上田紬、戸隠の竹細工など、長野各地に伝わる手仕事がさりげなく並んでいたりする。

漆器のしっとりとした手触りは、手のひらの温度を静かに受け止め、使うほど艶を増していく。木工の小物は素朴でありながら凛とした美しさを備え、日常のリズムを整えてくれる。どの作品にも、信州の自然や静けさがそのまま宿っているかのようだ。

単なる買い物ではなく、旅の途中でこうした工芸に触れることは、その土地が育んだ文化や歴史、作り手の時間を感じる体験。追分の静かな街並みに身を委ねながら、工芸品を通じて土地の美意識に触れるのは、若い頃には感じられなかったことを感じられ、まさに大人の散歩にふさわしい経験ではないか。

昼食にはやっぱり蕎麦を――土地の香りと風土を味わう

ざるそばと薬味とつゆの画像

さて、文化や歴史だけではお腹は膨れないのは、老いも若きも同じこと。追分での昼食には、やはり蕎麦を勧めたい。
信州は誰もが知るように屈指の蕎麦どころであり、追分周辺にも香り高い蕎麦を食べられる店がある。丁寧に打たれた蕎麦が静かな店内で供され、観光地の喧騒とは無縁の食事が楽しめるのは大人には嬉しい。

瑞々しく香り高いざる蕎麦は基本。店によって味わいは違うものの、蕎麦を引き立てるために、出汁の香りは控えめで、甘めのつゆは濃いのが特徴。一緒に頼む山菜の天ぷら。どれも気取らず、しかし土地への敬意とぬくもりを感じさせる一品ばかりだ。散歩の途中で心と体をほっと落ち着かせる昼食として、蕎麦以上の存在はなかなかないのではないか。

信濃追分が「大人のための旅先」である理由

追分宿の趣ある街道の画像

ここ追分には、巨大な観光施設も派手なエンターテインメントもアウトレットモールもない。だからこそ、この町にしかない魅力が際立つ。

歴史が静かに残り、文学の気配が森に漂い、工芸の手仕事が息づき、蕎麦が素朴に土地の香りを伝える。すべてが派手すぎず、しかし深く心に触れてくる。
軽井沢の隣町といった場所でありながら、独自の静けさを保ち続けてきた追分は、忙しい日常から一歩離れ、自分のリズムを取り戻すための場所として、いま多くの大人を惹きつけている。

旅を「消費」するのではなく、余白のある旅を「味わう」場所。われわれ世代の人間は、1日の中にたくさんのイベントを詰め込んだり、慌ただしく観光地をホッピングしたりするような旅では癒しを得られない。疲れが残るだけの旅はもはや不要なのだ。

信濃追分宿の散歩旅は、静けさの層を一枚ずつめくっていくような体験。宿場町の歴史、文学の森、伝統工芸との出会い、蕎麦の素朴な滋味。それらが寄り添いながら一つの物語を紡ぐが、同時に心に余白を残す。

華やかな軽井沢を訪れる旅ももちろん魅力的だ。ただ、隣の追分にも足を延ばしてみてほしい。そこには、喧騒から離れた「大人の時間」が静かに息づいて、私たちを待っている。

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もっと知りたいあなたへ

TRIP KARUIZAWA 軽井沢観光協会
https://karuizawa-kankokyokai.jp/about_karuizawa/502/
軽井沢町 追分宿郷土館
https://www.town.karuizawa.lg.jp/soshiki/22/
信濃追分文化磁場 油や
https://aburaya-project.com/oiwake-history-walks/
長野県博物館協議会 堀辰雄文学記念館
https://www.nagano-museum.com/info/detail.php?fno=78

本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。

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