土地土地が持つ味と物語をじっくり煮込む旅~鍋で巡る日本列島~
鍋は「食」であり「風土」である
湯気が立ちのぼる鍋を前にして、私たちが感じるのは単なる食欲だけではない。その香りや色合い、煮えたぎる音には、その土地で生きてきた人々の知恵と記憶が溶け込んでいる。
日本列島を縦断すれば、実に多彩な鍋料理に出会える。北海道の石狩鍋から沖縄のヤギ汁まで、それぞれが地域の気候風土を反映し、独自の食文化を築いてきた。鍋料理は決して冬の定番というだけの存在ではない。そこには、厳しい自然環境を生き抜く知恵、限られた食材を最大限に活用する工夫、そして何より家族や仲間と温かな時間を共有する文化が息づいている。
日本の鍋料理が持つ真の魅力を「鍋を知れば、その土地が見えてくる」という言葉が表している。今回は、各地の特色ある鍋料理を通じて、日本の豊かな食文化の奥深さを探っていこう。
北海道・石狩鍋の海と味噌の記憶
石狩川の河口で生まれた石狩鍋は、まさに北海道の海と大地の恵みが結集した一品である。主役は脂ののった鮭と、濃厚な味噌。この組み合わせは、厳寒の海で漁を営む人々が生み出した、理にかなった料理法だった。
鮭のアラからとる出汁は、魚の旨味が凝縮された濃厚なもの。そこに豆味噌や米味噌を溶かし込むことで、体の芯から温まる力強いスープが完成する。白菜やキャベツ、じゃがいも、長ねぎ、玉ねぎといった野菜たちも、この鍋では欠かせない存在だ。これらの野菜は長い冬を越すための保存性に優れ、厳しい自然環境下での栄養源として重宝されてきた。
石狩鍋の魅力は、その豪快さにもある。大きな鍋を前に家族や仲間が集い、湯気とともに立ちのぼる味噌と魚の香りを楽しむ。一口食べれば、北の海の潮風と、開拓者たちの逞しい精神を感じることができる。
秋田県・しょっつる鍋の深い旨味

秋田県男鹿半島の冬の風物詩といえば、しょっつる鍋である。この鍋の主役は、ハタハタから作られる魚醤「しょっつる」。この発酵調味料こそが、雪深い秋田の食文化を支えてきた宝だ。
しょっつるの製造は、まさに時間との対話である。ハタハタを塩漬けにし、1年以上の歳月をかけてじっくりと発酵させる。この間に魚のタンパク質がアミノ酸に分解され、複雑で奥深い旨味が生まれる。完成したしょっつるは、他では味わえない独特の風味を持ち、鍋に加えるだけで料理全体の味わいを格段に深める。
しょっつる鍋は、白菜、ねぎ、豆腐、そしてハタハタを煮込んだシンプルな構成。しかし、そのシンプルさゆえに、しょっつるの持つ深い旨味がきわ立つ。鍋からの発酵の香りは、雪国の厳しい冬を知らせる合図でもある。この香りに包まれながら囲む食卓は、秋田の人々にとって何物にも代えがたい故郷の味なのだとわかる。
広島県・土手鍋の「ふち」を囲む知恵

広島の冬の味覚といえば、かきの土手鍋が筆頭に挙がる。この鍋の最大の特徴は、鍋のふちに味噌を塗り回すという独特な調理法にある。一見変わった方法に思えるが、これこそが先人たちが編み出した絶妙な味の調整術なのだ。
土手状に塗られた味噌は、煮込みが進むにつれて少しずつ溶け出し、鍋全体の味に変化とグラデーションをもたらす。最初は出汁の清淡な味わいから始まり、徐々に味噌のコクが加わって深い味わいへと変化していく。この「味の時間軸」を楽しめるのが土手鍋の醍醐味だ。
主役のかきは、瀬戸内海の豊かな栄養分を蓄えた広島県産。その濃厚な旨味と、味噌の発酵による複雑な風味が絡み合い、他では味わえない至福の一品となる。白菜、ねぎ、豆腐といった定番の具材も、この特別なスープに煮込まれることで、普段とは違う表情を見せてくれる。
滋賀県・じゅんじゅんの煮えるリズム

琵琶湖に面した滋賀県には、その名前からして楽しい郷土鍋がある。「じゅんじゅん」この愛らしい名前は、鍋が煮えたぎる音から名付けられたという。オノマトペを料理名にしてしまうとは、なんと音楽的で親しみやすいネーミングセンスだろうか。
じゅんじゅんの主役は、滋賀が誇る近江牛や琵琶湖の魚だが、主に牛肉を使用することが多い。柔らかな肉質と上品な脂の甘みが特徴のこの和牛を、醤油ベースの甘辛いタレで煮込む。そこに地元で採れる野菜——白菜、ねぎ、しいたけ、豆腐などを加え、家庭的な温かさに満ちた鍋が完成する。
「じゅんじゅん」という音は、単に煮える音を表すだけでなく、家族が集まる団らんの象徴でもあるように思う。鍋を囲みながら聞こえてくるこの音は、忙しい日常を忘れさせてくれる癒しのBGMとなる。五感すべてで味わう料理——それがじゅんじゅん鍋の真髄なのかもしれない。
山の幸と海の幸〜地域を超えた鍋文化の多様性
日本の鍋料理の魅力は、地域ごとの個性だけにとどまらない。山間部では山菜や川魚をいかした鍋が、沿岸部では新鮮な海の幸を中心とした鍋が発達してきた。
例えば、山梨県の「ほうとう」は武田信玄の陣中食として生まれたとされ、太く平たい麺とかぼちゃなどの野菜を味噌で煮込んだ滋養豊富な鍋料理として愛され続けている。また、九州の「水炊き」は、博多の料亭文化から生まれた上品な鶏鍋として全国に広まり、今では家庭料理の定番となった。これらの例からも分かるように、鍋料理は地域の枠を超えて愛され、それぞれの土地で独自の進化を遂げてきたのだといえる。
地域の記憶を煮込む器〜それが鍋である

鍋を囲むという行為は、単なる食事以上の意味を持っている。それは地域の歴史や文化、人々の営みそのものを味わう体験なのである。石狩鍋には開拓精神が、しょっつる鍋には発酵技術の知恵が、土手鍋には瀬戸内の豊かさが、じゅんじゅん鍋には琵琶湖畔の穏やかな暮らしが、それぞれの鍋の中に込められている。
現代社会では効率性や便利さが重視されがちだが、鍋料理は私たちに別の価値観を思い出させてくれる。時間をかけて出汁をとり、季節の食材を丁寧に準備し、家族や友人と語らいながらゆっくりと食事を楽しむ——このような時間の使い方こそ、人間らしい豊かさなのではないか、ということだ。
各地の鍋料理を通じて日本を旅する。それは味覚だけでなく、その土地の人々の心に触れる旅でもある。次に鍋を囲む機会があったら、その鍋に込められた物語に耳を傾けてみてほしい。きっと、いつもとは違う味わい深い体験ができるはずだ。
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農林水産省 うちの郷土料理 北海道・石狩鍋
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農林水産省 うちの郷土料理 滋賀県・じゅんじゅん
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本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。