我が家の雑煮が一番うまい~正月に問われる故郷の味、記憶と郷愁の椀~
正月の食卓と雑煮の位置
正月の朝、最初に口にするのは雑煮だ。おせちは重箱に詰められ、冷たいまま食卓に並ぶ。黒豆、数の子、田作り——縁起物として大切だけれど、どこか儀礼的でもある。一方で、雑煮は違う。湯気が立ち、温かく、家族がそれぞれ椀を手に取る。
元旦、つまり元日の朝は特別だ。まだ薄暗い時間に起きて、初詣の準備をしていると、台所では雑煮が作られている。出汁の香りが家中に漂い、餅が焼ける匂いが混じる。その瞬間「ああ正月だ」と実感する。おせちも大事だが、雑煮こそが正月の中心にある気がするのはなぜだろう。
温かいものを食べるという行為には、特別な意味があるように思う。冬の寒さの中、熱々の椀を両手で持ち、ゆっくりと啜る。柔らかくなった餅を噛みしめると、出汁の味が体に染みていく。それは単なる食事ではなく、一年の始まりを体で感じる儀式のようだ。
地域で違う、驚くほど違う

雑煮ほど地域差が激しい料理もない。関東と関西で全く違うのは誰もが知るところだ。関東は主に澄まし汁に角餅、鶏肉、小松菜、ナルトなどが入る。対して関西は白味噌仕立てに丸餅、里芋、大根、人参。見た目も味も、まるで別の料理である。
さらに驚くのは、もっと地域を絞ると予想外の雑煮が現れることだ。島根県の出雲地方では、小豆汁に丸餅を入れる。甘い雑煮、初めて聞いたときは耳を疑った。香川県では白味噌に餡入りの餅だ。餡が入った餅を雑煮に——これも衝撃だった。岩手県では、クルミダレをつけて食べる雑煮がある。宮崎県では焼いた魚を丸ごと入れる。福井県では、カブを薄く削った「かぶら雑煮」。新潟県では鮭とイクラが入り、豪華な海鮮雑煮になる。挙げていけばきりがない。
餅の形だけでも文化圏が見える。角餅は東日本、丸餅は西日本。境界線は岐阜県の関ケ原あたりだといわれる。面白いことに、天下分け目の合戦があった場所と重なる。食文化の境界線は、歴史の境界線でもあったのか。
家庭によっても違う雑煮
地域差だけではない。同じ町内でも家庭ごとに雑煮は違う。出汁の取り方、具材の選び方、餅の焼き加減。細かい部分で個性が出るものだ。
ある家では鰹と昆布の合わせ出汁。別の家では煮干し。鶏ガラを使う家もある。具材も、鶏肉派と魚派、野菜だけという家もある。三つ葉を入れるか、柚子の皮を添えるか、海苔を散らすか。選択肢は無数にある。
母の雑煮、祖母の雑煮。それぞれに思い出がある。子どもの頃は何も考えず食べていたけれど、大人になって気づく。あの味は、作り手によって全く違っていたのだと。祖母の雑煮は具沢山で、野菜がたっぷり入っていた。母の雑煮はシンプルで、出汁の味が際立っていた。
結婚して初めての正月、相手の実家で雑煮を食べて驚いたという話はよく聞く。自分が当たり前だと思っていた味が当たり前ではなかった。醤油ベースだと思っていたら味噌だった。丸餅だと思っていたら角餅だった。世間にはそんな「雑煮ショック」を経験した人は多い。
「うちの雑煮が一番」問題

不思議なことに、誰もが自分の家の雑煮を最上だと思っている。他所の雑煮を食べても、「おいしいけれど、やっぱりうちのが一番」となる。これは雑煮特有の現象なのではないか。
カレーやラーメンなら、「あの店の方がうまい」といえる。でも雑煮は違う。比較対象が「家庭の味」だから、優劣をつけられない。いや、つけたくない。自分の家の雑煮の味が一番だと信じたい気持ちが、誰の中にもある。
正月になると、SNSには雑煮の写真が大量に投稿される。それを見て「これは邪道だ」「こんなの雑煮じゃない」とコメントする人がいる。でも考えてみれば、全部正解だ。それぞれの地域、それぞれの家庭で受け継がれてきた味。どれが正しいとか間違っているとか、そういう話ではないのである。それが雑煮というものなのだ。
雑煮論争は不毛だ。でも楽しい。なぜなら、自分の家の雑煮を語ることは、自分のルーツを語ることと同意だから。出身地、育った環境、家族の記憶。それらが全て、一杯の雑煮に詰まっているといっても言い過ぎにはならないだろう。
故郷の味という記憶
地元を離れて暮らすようになると、雑煮の特別さに改めて気づく。東京で一人暮らしをしている正月、スーパーで買った材料で雑煮を作ろうとする。レシピ通りに出汁を取り、具材を切り、餅を煮る。でも何かが違う。
味が再現できない。いや、味は近いかもしれない。でも「あの感じ」が出せない。実家で食べた雑煮の、あの温かさや安心感。それは味だけの問題ではなかったのだと気づく。雑煮が呼び起こすのは、味覚だけではない。正月の朝の空気感、家族が揃った食卓、テレビから流れる正月番組の音、窓の外の冬景色。五感全てと結びついた記憶。それを一人暮らしの部屋で再現するのは無理な話だ。
だから帰省する。正月に実家に帰り、あの雑煮を食べる。一口啜った瞬間、ああこれだ、と思う。懐かしさが込み上げてくる。何年経っても変わらない味。それは故郷の味であり、家族の味であり、自分の原点でもある。
地元を離れて初めてわかる。自分が当たり前だと思っていた雑煮が、いかに特別だったか。他の地域の人には理解されない具材の組み合わせも、自分にとっては唯一無二の味。それが故郷というものなのだと実感する。
変わりゆく雑煮、守りたい雑煮

時代と共に、雑煮も変化している。昔ほど手間をかけなくなった。出汁はパックで取り、具材も最小限。忙しい現代では仕方がない部分もある。それでも元日の朝に雑煮を食べる習慣は、多くの家庭で続いている。
伝統を守るのは難しい。特に若い世代にとって、一から出汁を取り、餅を焼き、丁寧に作るというプロセスは、ハードルが高くなっている。祖母や母がやっていたようには作れない。レシピを聞いても、「適当に」「目分量で」と言われて困ってしまう。
新しい家族を持ったとき、雑煮をどうするか悩む人は多い。自分の実家の雑煮を再現するか、相手の実家の雑煮を取り入れるか、それとも新しい雑煮を作るか。答えは家庭ごとに違うだろう。ある夫婦は、両家の雑煮を融合させた。関東風の澄まし汁に、関西風の丸餅を入れる。具材は双方の家庭で使っていたものを少しずつ。それが二人の新しい家族の雑煮になった。伝統を守ることも大事だが、新しく作ることもまた、伝統の一部だ。
次世代に何を残すか。完璧に再現することは難しいかもしれないし、その必要はない。でも、正月に雑煮を食べるという習慣は伝えたいと思う。味が少し変わっても、形が変わっても、その行為自体に意味があるはずだから。
雑煮が教えてくれること

食文化とは、その土地の気候、産物、歴史が積み重なって生まれるものだ。海が近ければ魚介を使い、山間部では野菜や山菜を使う。寒い地域では体を温める工夫があり、温暖な地域では違う特徴がある。雑煮を見れば、その土地の暮らしが見える。
正月に雑煮を食べる意味を考える。それは単なる伝統行事ではない。年の初めに、家族が揃って同じものを食べる。それぞれが育った場所の味を思い出し、今いる場所の味を確かめる。過去と現在が、一杯の椀の中で繋がる瞬間。
我が家の雑煮が一番うまい。誰もがそう思っていて、誰も間違っていない。なぜなら、自分にとっての「一番」は、味覚だけで決まるものではないから。記憶と感情が混ざり合った、特別な味。それが「雑煮」なのだ。
次の正月も、きっと全国でさまざまな雑煮が作られる。白味噌も澄まし汁も、角餅も丸餅も、小豆も餡入りの餅も。どれもが正解で、どれもが誰かの大切な味。その多様性こそが、日本の豊かさなのだと気付かされるのが「雑煮」なのである。
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もっと知りたいあなたへ
農林水産省 全国のいろいろな雑煮
https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/2001/spe2_03.html
本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。