2026.1.15

千葉・長生郡長柄町の蕎麦屋〜店名の出ない旅するグルメ4〜

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ある恩人と80年代の雑貨ブーム

知人が亡くなって3年ほど経った。若い頃に雑貨業界で仕事をしていた時代、取引先として随分世話になった会社の社長をやっていた人物だ。晩年は千葉の山にこもって仙人のような生活をしていた。おもしろい、変わった人物で、在職中も変わった人だなあと思っていた。いつも笑顔を絶やさない、しかし油断するとたちまち一撃を喰らわされる、タフな商売人でもあった。いろいろと勉強をさせてもらった恩人である。

巨大なガムボールマシンや壁面を使ったキャンディのバラ売りシステムなど、今でも踏襲されるスタイルを作った男で、会社を設立して、代官山にテディベア専門店や新世代の駄菓子屋、ラッピング専門店、365日クリスマスコンセプトのショップ、手拭い専門店などを矢継ぎ早に出店した。80年代の東京で生きた世代ならグッとくるこれらの店を擁する会社だった。

80年代の「オシャレと雑貨の時代」を築いた人物の一人と言っていい。ティディベアを日本で本格的に紹介したのも彼だった。そののち「日本テディベア協会」の設立も彼の手になる仕事であった。わたしも営業でずいぶん代官山の彼のオフィスに通ったものだ。

長柄町のくまの森ミュージアム

そんな彼は時代の波の中、会社を失い紆余曲折の末、千葉の山の中にたどり着く。千葉県の中央あたり、長生郡長柄町(ちょうせいぐんながらまち)という小さな町。千葉のゆるキャラ、チーバくんで言うとハートのあたりにある町だ。何があるわけではない、小さな場所。わたしのなかではダムのある里山のイメージがある。

支援者の手助けにより、そんな里山の上にあるログハウスに居場所を移してひとりでその山を整備。同時に自らが育てた日本のテディベアカルチャーを存続すべくチェーンソーカービングという手法でクマの彫刻を製作。作品を山に点在させて「くまの森ミュージアム」と名付けたちいさなテーマパークを開設した。隠遁生活に入ったと風の噂に聞いていたが、案の定ちっとも止まっていなかった。

何度も遊びに行ったものだ。泊めてもらった時もあった。カレーを作り、タンドリーチキンを焼きに行った時もある。その場所はテーマパークというよりも里山の庭といった風情。斜面に作られた細い道沿いのここかしこにクマの木彫りの人形が色々な表情でこちらを見返してきたり、好き勝手に遊んでいたり。そういう里山の自然を楽しむようなやさしい場所だ。

地平線の見える牧草地

彼が亡くなってからも相変わらず気が向くと車で出掛けて行っている。2匹の人懐っこい猫がいるのも理由の一つ。いつ行ってもそのふたりが出迎えてくれるので心が和む。彼が生前飼っていた猫だ。いまは管理の方が可愛がってくれている。足元にまとわりつくふわふわのかたまりを穏やかに撫でながら、亡くなった彼のことを独り言のように2匹にしゃべりかけたりする。

「くまの森ミュージアム」も楽しい場所だが、その向かい側に広い広い牧草地があるのだ。高い場所にあるゆえに地平線が見える素晴らしい光景。それを眺めるためだけに車を走らせることもある。知る人ぞ知る関東近郊の大自然を感じさせるロケ場所でもあるらしい。なにもないということは兎にも角にもこんなに贅沢なことなのか、とため息が出る。

なにもない、など書いたのだが、行けば行ったで長柄の周辺には面白い場所もちょこちょことあって実は回る場所に事欠かない。

牧場のジンギスカン

長柄ダムの画像

長柄ダムのほとりはなかなか楽しい場所だ。春になると「長柄ダム桜まつり」が催される。ダム周辺には約3200本の桜が咲き誇り大変な美しさ。 バーベキューテラスやロッジという設備もあって花見でバーベキューなんていう洒落たこともできるようだ。そばにはファーマーズマーケットがあって地元の新鮮な野菜が手に入る。

「くまの森ミュージアム」の隣には先ほどの話の牧草地を擁する秋元牧場がある。ジンギスカンが食べられる古くて渋いセルフ食堂が併設されている。営業時間が短くなかなかハードルの高い施設なのだが趣のある場所なのでなんとかして行ってみたいものだと思っている。きょうも営業時間前に売り切れ、腹が減った。どうするか。

ここらあたりの名物名産はなにであったか。ジビエ料理に、ながら味噌、か。ご当地ラーメンならボウボウラーメンにアリランラーメンか。長柄ダムのレストハウスでダムカレーという手もあるなと考えていて思い出した。そうだった。蕎麦がいい。

蕎麦畑の中にある蕎麦屋

蕎麦の花の画像

牧場と「くまの森ミュージアム」のある山を、来た道と反対側にくだると畑がある。その畑は蕎麦畑なのだ。そしてその蕎麦畑を眺めながら蕎麦をすすれるというすごい蕎麦屋があるのだった。きちんとおいしい蕎麦を出してくれた記憶がある。故人が気に入ってすすっていた蕎麦である。それもよかろう、食事にしよう。

畑を見下ろす高台にあるその店のまわりはいちめんの蕎麦畑。蕎麦畑の真ん中に蕎麦屋があるという体である。ちょっと驚いた。そして、食べてもっと驚いた。大変な美味しさなのだ。目の前で収穫される蕎麦の実を石臼で製粉、できた蕎麦粉を使って自家製麺している。蕎麦という食べ物をその場所の内側で全て完結させて提供している圧倒されるシステムだ。

せいろ定食

頼んだのは平日限定おすすめランチのなかから「せいろ定食」。数量限定のようで人気メニュー、滑り込みで注文できた。せいろが1枚と炊き込みご飯。サラダと香のものがつく。これがうまかった。

蕎麦猪口にネギなど浮かべてそばをすすってみると。これがどうにもうまい。蕎麦はばりっと固くて蕎麦切り包丁の切り口も鮮やかな角が立つ。蕎麦の実の香り強く、実に実に「旨い」もの。窓の外の蕎麦畑を見るふりをしてひとりでそっと唸り声を抑える。大変な充実感。しかもそのうまい蕎麦をいちめんの蕎麦畑を眺めながらすすれるわけである。ここは天国か、と訝しむ気分だ。

思い出と蕎麦の味

蕎麦を啜りながら今は亡き彼のことを思い出す。

わたしが彼を最後に見たのはいつだったか。ひとりで彼を訪ねて行ったが留守だったことがあった。仕方がないので山の中腹に停めた車の中で夕暮れの風景を楽しんでいると山の上から赤い光が降りてきた。なんだろうと暗がりに目を凝らすとどうやらシニアカー。ここらへんの数軒の家であれに乗っているのは彼だけのはずだ。なんとなく声をかけられず、車のサイドウィンドウを静かに上げた。

あの洒落者がシニアカーを転がして麓の蕎麦屋に晩飯を食いに行くところなぞひとに見せたくないのではないか。思い込みかもしれないが、そんなことを考えて車のシートに身を埋め首を引っ込めてやり過ごした。目線だけは彼のシニアカーのアンテナの先についた赤いライトをずっと追っていた。それが彼を見た最後になった。

ぼんやりお茶を飲みながら長居をしてしまった。うまい蕎麦もあることだし、また社長の熊たちに会いにこよう。知り合いの猫もいるが彼らもずいぶん歳をとった。早めにまた寄るようにしよう。

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もっと知りたいあなたへ

くまの森ミュージアム
https://www.kumanomori-museum.com/

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本記事は筆者の見解・体験に基づくものであり、一部一般的な情報や公開資料を参考にしています。

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